スタッフ座談会【後半】 「スタッフの場づくり」

イラスト。5人の人が円状に椅子に座って話し合っている。staff talkとイラストの上に書かれている

私たちは普段、目の見える人、見えない人、見えにくい人が言葉を交わしながら美術鑑賞する場をつくっています。進行役として目の見えるスタッフと見えないスタッフがコンビで「ナビゲーター」を務めます。複数の人が安心して集まるためには、スタッフたちによる入念な準備と振り返りが必要です。

今回のスタッフ座談会では、目の見えないスタッフが準備段階で考えているスタッフならではの楽しさ、工夫、迷いを話しました。前半でのそれぞれが考える「みる」経験の話から、後半ではワークショップの場づくりにテーマは移っていきます。

 

スタッフ座談会【前半】のリンクはこちら

 

座談会参加者プロフィール

中川美枝子
1994年埼玉生まれ。全盲の視覚障害当事者。7年前にワークショップと出会って以降ナビゲーターとして活動。現在は埼玉県内で英語の教員として勤務。大学で文学研究を専攻していた経験から、ワークショップで飛び交う言葉とその背景にあるものを分析するのが好き。好きなキャラクターはスヌーピー。

衛藤宏章
視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップスタッフ。
1987年生まれ、大分県別府市在住。23歳の時失明、現在は全盲。アートに興味を持ったのは見えなくなってから。作品を鑑賞する人を鑑賞するのがおもしろい。

平海依
2002年長崎県生まれ。重度弱視の大学生。
2022年の夏からワークショップのスタッフとして活動している。人それぞれで異なる、作品の印象や鑑賞の視点に触れることを楽しんでいる。幼少期は絵を描くことに熱中していた。

林建太
視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップスタッフ。
1973年東京生まれ。鑑賞ワークショップでは主にナビゲータを務めている。美術や映画が好きで、そのことを語る会話の不思議さにも興味がある

山里蓮
広島大学総合科学部4年生。
2001年生まれ。卒業研究として、視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップでの鑑賞の経験について研究をしている。最近の趣味は新作グミの味比べをすること。

森尾さゆり
視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップスタッフ。
コンサバターという保存修復の分野の仕事をしており、ものに触れることでの鑑賞にも興味がある。作品に残った痕跡から、想像や推測することが好き。

 

作品の中に入れない

林 ナビゲーターをやっていて、上手くいかなかったとかモヤモヤした経験の話も聞いてみようと思って。そういうものに、実は場づくりのヒントがある気がするのですが、中川さんはそんなご経験ありますか?

中川 言葉がたくさんでてるけど、全く噛み合わないときとかですね。空振りしまくってる時というか。見える人だけで盛り上がってる時みたいな。

林 見えない人が入るきっかけがない時とかですよね。例えばどんなことがありましたか?

中川 例えば東京を撮った写真を見た時とか。すごくポピュラーな場所だと、これはどこから撮った写真なのかとか、この建物の感じは多分2000年代じゃないかとかの話が、見える人の間で盛り上がって。でもそれは、その写真じゃなくても話せることじゃないですか。写真について話してる感じや、写真に近づいてる感じが全然しなくて。私ともう1人の全盲のスタッフが全然入れなかったんですよね。

森尾 話は盛り上がってるけど、作品がおきざりという感じ?

中川 そうですそうです。だから、あの時はどう切り込めばよかったんだろうっていうのは結構しばらく悩みました。

林 視座のズレが見えにくくなってしまう事ってありますよね。

森尾 迷子になるとか漂うということができない。

中川 そうですね、作品に全然足が立ってる感じがしない。作品に入ってこその迷子なのに、入る手前のところで入れずにオタオタしてるみたいな感じ。

林 迷子どころか、出発もできてない。

平 うんうん。

中川 そう。作品の中にすら入れないというか、入り口がまだ見つからないみたいな感じですよね。

山里  今の話で、参加者の話が噛み合ってない時があるんだよねという話があったと思うんですけど、これは違うなみたいな場面もあるのかなって思ったのですが。

中川 なんだろな、作品がやっぱり置き去りになっちゃう場面は、すごく寂しい。

林 それは具体的にどういう場面ですか?

中川 そうですね・・例えば戦争とか震災とかが背景にある作品を鑑賞するときとかですね。以前恵比寿映像祭※1で、難民の少年が手話で語りかけてるという映像を見たことがあるんですけど、平和の大切さとか戦争のむごたらしさとか、概念的な話に留まってしまって。でも、それって作家がつくった作品については何も語ってないじゃないですか。

林 うん、うん。

中川 大変な目にあったんだっていうところに視点が固定された状態で、話が進んじゃうっていうことがあるんですけど、それって作品そのものが別に悪いわけではないけれど、もうちょっと、疑う目も欲しいなっていうのは思って。なので、別の角度から見るっていうことができなくなっちゃうっていうことが、なんだかつまらないなとか、残念だなっていう風に思います。

森尾 今聞いてて面白いなと思ったのは、それが逆にどういう場を作りたいかっていうところに繋がってきてるのかなと思って。作品の中に入れていないということは、結果見えない人もみたなっていう経験ができなくなっちゃう。作りたい場もつくれないし、会話もすごく手前で止まってしまうのかなって。

中川 いや、本当そうなんですよね。そこからもう一歩踏み込みたいのに、例えば戦争という概念に阻まれちゃって、話がそこから先にすすまない。視点がズレたりとか、一歩踏み込んだりということが全然起きない。乗り越えちゃいけないとまでは思っていないかもしれないけど、乗り越えようっていう意識が、全然みんなの中に起きないなっていう感触がある時があります。

林 作品とか作家の視点っていうのは本当はフィルターなのに、そのフィルターをほったらかして、戦争の話をしちゃってる。こっちは作家の視点ていうズレた視点、色眼鏡を通した世界を見たいと思ってるのに。

中川 うんうん。

林 せっかくの色眼鏡を横にやって話をしてるみたいな、そんな感じですよね。

中川 そうですね。なんだったら、その作家の色眼鏡そのものがどんなものか見てやろうぐらいにこっちは思ってるのに、色眼鏡が全然みんな目に入ってない。眼鏡かけてることに全然気づいてないみたいな。

林 色眼鏡とか疑り深いことって大事ですよね。

中川 うん。そうですね。確かに。

 

「ここ」であるから出来る話

中川 疑い深いっていうのもそうだし、あと文脈みたいなものを壊してくれるような人もいるとすごくいいなと思っていて。ヨコハマトリエンナーレ※2で、シリアの難民の人たちが避難する時につけてたライフジャケットを集めてたものが柱にぶわーっていっぱい張り付いてる作品を見て、誰かが「なんかドンキホーテのリュック売り場みたいですよね」って言ったのがすごい印象に残ってて。そっかこんなにたくさんの人がライフジャケットをつけて避難したのかって、本当はそこがメインストリームなんだけど、そこをドンキのリュック売り場みたいですよねって言ってくれると、別にそれって不謹慎じゃなくって、作品の形とか作品の見え方っていうのが、もう1つ新しくポンって生まれた感じが私はして。そういう場面に出くわすのも、私はすごく好きですね。 

衛藤 ストレートな見方じゃなくて、ちょっと変化球が来ることで、すごくその作品そのものが後に印象に残ってくる。

中川 そうそう。

衛藤 その作品を見たなっていう記憶が後に残るっていう点では、ストレートな見方だけだと後に残らないんですよね。

中川 ある意味で言えば、そのドンキのリュック売り場みたいだよねっていう言い方はストレートなんですよ。 本当にそう見えるし、そういう要素だって作品は持ってるのに、それがなかったことにされちゃうっていうのが、私はすごくつまんないなって思うんですよね。それを言わせない何かがいつもあって。でも、それをあえて乗り越えて言ってもらえたら、私はすごい嬉しいし、それが面白い。そこから広がっていく話って、このワークショップの場じゃないと聞けない話だから。もうそういうのが出てくると、すごい嬉しくなっちゃう。

衛藤 特に戦争とか震災だと、人が言葉選んでるなみたいな時ありますよね。結局綺麗な言葉しか出てこない。どっかで聞いたことある言葉だけが出てくるみたいで、それだと印象にも残らない。じゃあそれ今ここでわざわざ話さなくてもいいよね、みたいな。

中川 そうそう。

林 さっきの東京の写真の話でも、「ここじゃなくてもできる話」だよねってなりましたよね。だから、「ここ」っていうその場所というか、作品の前という意味でもあるでしょうし、作品というものを見てるからこその話が出来ることって重要。 

中川 うんうん。

森尾 今聞いてて、そこにいる人1人ひとりの、本心というか本音がぽろっと本当に出てきちゃった言葉っていうのが、すごく残るのかなって思いました。

中川 本当にそうですね。うかつな言葉が欲しいって思ってて。意外とそういう言葉の方が普段聞くことがないので。やっぱりそれを1回みんな飲み込んでから話してる。多分、見えない人への説明とかもそう。今時でいう”コンプラ違反”にならないような言葉を選んでるので、そうじゃないものが聞けたかどうかっていうのは、結構大きい気がします。 

衛藤 僕が残念だなって思う場面は、例えばストップモーションアニメを見た時に、 見える人があらすじを説明していって、ストップモーションアニメってそもそもなんなんだとか、この作家はなんでこの映像をつくったのかっていうところの話が完全に抜けてしまう時とかですかね。

見えない人にとっては、あらすじの説明だけだと、ストップモーションアニメだろうが2Dのアニメだろうが、実写だろうが関係なくなってしまうんですよね。そうすると、作品から置いていかれる感じになって、作品に僕らは入り込めてないよなっていう話になってしまう。だから、その見えたその表面だけじゃなくて、もう一歩踏み込んでいった時に、面白くなるなという。そこまで入り込まないでストーリーだけだと、それで成立するっちゃ成立するけど、ただそれだけで終わるっていう感じですよね。 

中川 一般的には、見たっていう経験にはなりますけどね。

衛藤 僕たちにはならないですよね。知ったっていうだけの話。

中川 ストーリーは知ってる。

衛藤 でも見たことにはならない。そう。

林 それこそストーリーは誰でも伝えられる。

衛藤 そう、みんなで一緒に見なくてもいいよねっていうことになってしまう。

 あれって色眼鏡を楽しむジャンルっていうか。だから、そこをろ過してあらすじだけ説明されたら、多分本当面白くない。1番の面白みを省略しちゃってる感じだと思うんですね。

でも得てしてそのストップモーションの前に、見える人と見えない人が立つと、 ストーリーの話がなんかこう重視されがちになる。でも多分、見える人からすると、ものが動いてる描写って難しいんですよね。あの感じを伝えるのは難しいから、難しいことはやっぱり避けて、難しくないことをとりあえず説明してしまうみたいな。

衛藤 うんうん。

林 でも抽象的なことばかり言われて、説明にたどり着かなすぎても困りますよね。難しいと思う。

衛藤 だからこそグループで喋る意味があるんでしょうね。 

 

つくりたい場

林 改めてどういう場をつくりたいかということを話したいなと思うのですが。みなさんいかがですか?

平 私は、素直な感想を持って帰ってほしいなって思います。うまくイメージできなかったなでもいいし、この作品はあまり入り込めなかったなとか、あんまり好きになれなかったなっていうのも、別に隠すことでもないので。そういうのを素直に感じてほしいって思います。

林 素直になれないこともあるということですか。

平 やっぱりワークショップという場だからこそ、その場の雰囲気に流されて、楽しかったって思ってしまうみたいな。流されちゃうっていうこともあるし、私この作品あんまり好きじゃないんですよねっていうのを、あまり言わないし、言えないじゃないですか。楽しめましたっていう感想ばっかりなので、だんだん気になってきちゃって。本当に楽しんでくれているかな?とか、それ以外に何か思ったことはないのかなとか。

衛藤 なんかすごいものを持って帰ってもらわなくてもいいなっていう感じですよね。
いい作品を見たって思ってもらわなくてもいいというか。なにかすごい経験をしたとかじゃなくていいんだよっていう。 初めて来た人は、わからなくて当然な気はするんですよね。このやり方に最初ついていけなくて当たり前だと思うし。だから、そうした時に、私にはとてもついていけません、わかりませんでいいんだけど、ついていけないのを悪い意味に思ってほしくないですよね。私には感性も能力もないから楽しめなかったって思い込んで、そのまま諦めてしまうことが僕は一番嫌ですね。最初はわからなくて当たり前っていうくらいのつもりでいて、参加してほしいな。

林 だから、この場はいろんな入口のうちの1つなんだよっていう感じですかね。

衛藤 そう、そうですね。

中川 よくわからなかったっていうのも、受け止める場にしておきたいんですよね。結局それって作品に向き合おうとしてることの表れだと思うし。それはそれで、みた経験に私はなると思っていて。

それこそいま学校で教えているからなおさら思うんですけど、結局日常生活の中にいると、見えない人って、見える人が目指してるゴールにいかに自分を近づけてくかみたいな方にどうしても頭がいっちゃうし、やっぱりそれができないのは、自分の能力が足りないからだと思ってしまう。それができないとやっぱり生活でも実害が色々生じたりするわけで。だから余計、わからない時にわからないって言えなくなっちゃったり、それが自分でも相手にもネガティブに取られちゃったりする。
でも、別にここはそういう場ではない。わからなかったのは、その人の能力とかの問題ではなくて。じゃあなんでわかんなかったんだろうっていうところを掘り下げたら、多分面白いものがいっぱい出てくると思うんですよ。よくわからなかったという言葉に着地してるだけで、その中にはいろんなものが含まれてる。理解できなかった、あ、そうですよねって、そういう経験の仕方だってありますよねって、やっぱり受け止める場であってほしい。

何回か参加するうちに、じゃあもう一歩踏み込みたいとか、自分の中で何か答えを見つけたいっていうところに、気持ちとか考え方が変わっていくなら、それはそれでいいことだし。
参加者がよくわからなかったと思った自分のことを、それで落ち込むというような風にはなってほしくない。あ、わからなかったなって、面白かったなっていう方でとまってくれたらいいなって。そこに罪の意識を感じない場であってほしい。

 

中川さんがナビゲーターをしている様子、まわりの参加者が写真作品を見ながら考えている。

ワークショップ中の中川さん

 

平 それこそ、正解がないから。

中川 そうそう。

衛藤 この作品鑑賞って、生命とか危険には直結しないじゃないですか。絶対的に見えないといけないもの、わからないといけないものじゃないじゃない。でも、意外とそういうものって僕らの生活の中にないんですよね。生命とか危険に直結しないものなら、そこを漂うことができる。言いたいことわかりますか?

林 うん。

衛藤 絶対的にわからないといけないものじゃない。だけど、意外と当事者は、そういうものがそもそも生活の中になくて、漂っていいものとか迷子になれるものっていうのがないから、そういうことに慣れていない面はあるかなと思うんですよね。でも、迷っていいんだ、漂っていいんだって、それに気づくきっかけになったら、すごく面白い。そういったことに気づいてももらえる、そういう場でもあってほしいな。

森尾 日常生活では、わからないっていうことが、危険に晒されるとか不安になるっていうことにつながることが多いからなんですかね。

衛藤 多分、実際そうだと思う。“知らない“が危険と直結するので。包丁がどこにあるかをはじめとして、一歩踏み出した先に地面があるかないかを、知っているか知らないか。一歩踏み出すことそのものが、もう常に危険と隣り合わせなので、そのわからないっていうことがすごく怖いとか恐怖に感じてる人はすごく多いんじゃないかな。

林 そういった危険がある場所でも、美術館みたいな場所でも、障害者と健常者の関わりあいって、多分常に生じちゃうものだから、危険があるところではニーズをはっきり明確に伝えなきゃいけないみたいな、その発言の強制力って、健常者によって持ち込まれてる気がするんですよね。場所にも言葉遣いにもすごく影響をもたらしてるというか。だから、曖昧なままで迂闊なことを言いあえる場と、そうじゃない場っていうのが、なにかはっきりあるんじゃないかなって気はしてて。そういう意味で、色々な言葉が流通できる場所かどうか。それは、健常者が強く関係してることではあると思うんですよね。

森尾 何か踏み込んで迂闊なこと言ったらこう思われるんじゃないかとか、間違ったこと言っちゃいけないっていう恐怖とか不安が邪魔をするときもありますよね。

林 うん。だからいろんな要因で言えないことがあるっていうことを、僕らは認識してるわけですよね。こういう話をしなきゃいけないとか、こう振舞わなきゃいけないとか。見える人が見えない人に「イメージできてますか、大丈夫ですか?」って毎回確認するのも、多分そういう今話したような辺りに根差してると思うんですよ。

中川 そう。だから、本当はその視点を持ち込んでほしくないんですよね、美術館の中に。だって別に必要ないんだもん。そこから外れるのが面白いのに。

平 説明してくれてる方が「イメージできましたか、これで大丈夫ですかっ?」て聞くたびに、いいんです、そんなこと。それが大切じゃないんだからって思っちゃうようになってきましたね、ここ半年ぐらいで。

林 それ、僕もでもいまだに言っちゃうこともあるし、すごくやっぱり染みついてるんですよね。だから、 それってやっぱりちょっとおかしいよなっていうことに、本当、僕も中川さんなんかと色々話すようになって、気づいたことでもあるので。

中川 学校とかでも本当だったら、もっと迷わせてあげたいんだけど・・

林 だから、学校にはできない場を、我々なり美術館なりがつくっていくというのは、いいような気がしますね。

中川 そうですね。

林 このワークショップでどういう場をつくりたいかの話ですけど、中川さんはどうですか?

中川 見えない人が見える人と同じように作品をイメージするということが、ゴールとか正解として語られがちだと思うんですけど、でも別にそこに近づける必要は全然ない。その人その人の鑑賞の仕方っていうか、見方みたいなものができてくるといいなっていうのはすごく思っていて。1つの作品にいろんな見方ができるんだよっていうのを、言葉を通して体験できるというのが、すごく私は面白いし、それをいつもしたいと思っていますね。
1つの作品を、角度をちょっと変えるだけでこんなにいろんな見方があるんだっていうようなところに触れられる。特に見える人たちが迷う場面に出会うことって、見えない人間にとってはそんなにないので、そういうところに触れて、なおかつそれを自分が作品をみるという経験として楽しめるというのが、自分の目指す鑑賞。それができた時が、私はすごく楽しいなって思うし、作品としてもすごい印象に残るという感覚があります。

林 ワークショップって複数で集まってワイワイ話しますけど、今日改めて思ったのは、このスタッフ側でも世代の違う人が集まって、複数で話すことってめちゃくちゃ大事だなあと。少なくとも私にとって、いつも考えるよりどころになっていて「なにかおかしくないかな?」とか思うことを、飲み込んでしまったりする部分ってあったりして。それって、見える人にも見えない人にも多分あると思うんですよね。そういう、これってどうですかね?って出せる場があってこそどんな場を作りたいかを考えられるのかなって思いました。今日はどうもありがとうございました。

 

注1)2018年2月18日, 24日開催  NPOアーツイニシアティヴトウキョウ[AIT/エイト]主催、第10回恵比寿映像祭での視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ

注2)2017年に横浜美術館で開催された「ヨコハマトリエンナーレ2017 島と星座とガラパゴス」でのアイ・ウェイウェイのインスタレーション《安全な通行》。
9月に、横浜トリエンナーレ組織委員会、横浜美術館教育普及グループ主催で、美術鑑賞ワークショップを開催。

 

(編集:森尾さゆり)