「みる」経験のインタビュー 岡野宏治さん【後半】

イラスト。2人がテーブルに隣り合って座り話している。下にはinterviewと書かれている。

このインタビューは、目の見える人、見えない人、見えにくい人、さまざまな立場の人に「みる」経験をインタビューするシリーズです。
美術を鑑賞する方法には、目で見るだけではなく、目の見える人と見えない人が一緒に言葉を交わしながら「みる」方法や、触れながら「みる」方法もあります。
それぞれの経験は、記憶や経験、他者の言葉など、環境との相互作用によって変化していきます。その変化のプロセスに目を向けて、さまざまな「みる」経験をインタビューとして記録します。

 

前半に引き続き、岡野さんに「見ているものの編集パターン」についてお話を伺いました。複数人で美術をみるときには、時折その場にある作品の解釈やイメージがガラリと変わる瞬間があります。岡野さんは、鑑賞ワークショップの魅力を料理や詩にたとえながら、複数人での鑑賞をどのように楽しんでいるのかについて教えてくださいました。

 

プロフィール 

岡野宏治さん
1960年東京生まれ。鍼灸・マッサージ師。
30代から難病の網膜色素変性症で徐々に視力を失い、現在はほぼ全盲(光覚)。2006年より盲導犬ユーザーとなり、同年東京で治療院「大泉あんしん館」を開業。現在の盲導犬は3頭目のラブラドール・レトリバー犬(オス)のゲイル。

聞き手

林建太
視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップスタッフ。1973年東京生まれ。鑑賞ワークショップでは主にナビゲータを務めている。美術や映画が好きで、そのことを語る会話の不思議さにも興味がある

山里蓮
広島大学総合科学部4年生。2001年生まれ。卒業研究として、視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップでの鑑賞の経験について研究をしている。最近の趣味は新作グミの味比べをすること。

 

 

見えてた時の記憶かどうかわからなくなる 

岡野 ちょっと余談でそれるけど、 最近すごくおもしろいなと思ったことがあってね。

林 なんですか。

岡野 絵もそうだし映画もそうなんだけど、視覚障害者が見ている時って、晴眼者に比べて圧倒的に情報量が少ないじゃないですか。

林 そうですね。

岡野 それはそう思うんだけど、しばらくたって記憶の中で思い起こす情報って、あまり変わらなくなるんですよ。何を言っているかというと、ある映画について話して、あの映画よかったよねという時に、私昔見た映画って見えてた時に見た映画なのか、音声ガイドで見た映画なのか、区別できないんですよ。

林 そうなんですね。

岡野 だから記憶の中ではあまり変わらない。それはね、絵もそうなんです。

林 へー。

岡野 この間東京都美術館で見たマティスと、 大昔ニューヨークのMoMAで見たマティスの記憶って変わらないんですよ。

林 えー、それお聞きしたいですね。さっきの話で言うと、インプットの編集方法は違っても、記憶の中で完成したら同じところに保存されるってことですか。

岡野 ただ、やっぱり見えなくなってからつくった記憶が、実際とは結構違う可能性は大いにあるわけですよ。だけど、思い出した時にはあまり変わらないんです。 見えてた時と見えなくなってから見たものは、本当に区別できないんです。

林 だから、見えていなくても、作品としてはちゃんと鑑賞しているんですよね。

岡野 そうそう。

林 岡野さんがある作品を鑑賞できたと思うには、何の要素があればそうなるんですか。

岡野 もちろんある程度の説明は必要ですよね。例えば、一緒に行った家族に説明してもらったとか。でも頭の中である程度イメージしたら、その記憶と昔本当に目で見た時の記憶はあんまり区別できない。ちゃんと見たなっという記憶なんですよ。

山里 その見たなっていう記憶の中に、それを見てどう思ったかとか印象の部分も入っている感じなんですか。

岡野 入ってますね。音は聞こえるじゃないですか。だから、印象として残っているというか、見たなっていう記憶として残っていて、それはその時に音を聞いてイメージしたものがあるからだと思う。映画で言うと、音声ガイドでしか聞いてない映画でも、あの場面よかったよねという話をしちゃうんですよ。 あそこは名場面だよねとか。本当は見えてない。

林 そういうことを指して“見る”って見えない人はよく普通に言いますよね。その時の“見る”ってやっぱり、見るとしか言いようがない。

岡野 うん。でも僕の場合は中途だから、本当にある程度映像としてイメージしますからね。

林 そうですね。じゃあ拠りどころとしては、やっぱり映像がベースにあるわけですね。

岡野 それは先天の人とは違うかな。私映画好きで、見えてるときに散々映画を見てきたから、いつでもスクリーンとして見てるし、絵も壁にかかっている絵としてたくさん見たから。

 

ズームのスクリーンショット。3人の画面が映っている。林さんが話し、2人がなにか考えながら聞いている。

ズームの様子(左上が岡野さん)

 

編集パターンが変わる時

林 でも、鑑賞ワークショップをしていて“変わっていく”ってよく言うじゃないですか、ガラッと変わる。ああいう時は、どうなるんですか。その壁にかかってる絵は。

岡野 変わりますよ。新しくつくられた絵が見えるという感じかな。 だんだん変わっていくとかではなくて、前の絵が上書きされるみたいな。

林 なるほど。このワークショップに参加してくれる見えない人は、そういう変化こそがおもしろいっていう方が多いんですけど、岡野さんはどうですか。

岡野 変わっていくのはおもしろいですよ。だって、誰かが言った一言によって、違う映像に変わるから。そんな色なの?とか言って、色が変わったりするわけ。

山里 岡野さんはそれに加えて、自分の発言で相手が持っている作品の解釈やイメージがガラっと変わるような感覚も楽しんでらっしゃる気がします。

岡野 うん、そうそう。こっちから話していても、見えてる人のそれまでの見え方が明らかにガラッと変わったりするのがわかる時があっておもしろいです。

林 見えてる人の見え方がガラッと変わるのってどうしてわかるんですか。

岡野 実際にどういう風に頭の中で変わっているかまでわからないけど、声のリアクションとかで、こうだと思っていたものが、あ、そっか!みたいな。確かにそう言われてみればそういう風に見えてきた、ってなったりするじゃないですか。

林 なりますね。

岡野 あれはおもしろいですよね。

林 そうなんですよね。今後のインタビューでも、時間をかけて晴眼者の人にも聞いていきたいと思っていて。すこし前の岡野さんの言葉、すごく言い得て妙だと思ったんですけど、自分の中の編集作業や編集方法が変わった瞬間がわかっちゃう時があるんですよ。

岡野 うんうん。

林 それが、見える人にとっての驚きで。そういう時って何が起きているのか、目の見える人の“みる経験”として聞きたいなとも思っているんですよね。

岡野 そうなんですよね。本当は美術だけじゃなくて、体験で世界が全然変わって見えるようになったというのは、編集のパターンが変わったからそう見えるということなんですよね。だから、誰も不変なものは見てないんですよ、常に。

林 私たちがこれからインタビューをしていろいろな人の声を集めてアーカイブサイトをつくるのは、いろんな“編集者“に話を聞きたかったからなのかなって、今思いいたってます。有名な“編集者“の話しか流通しないじゃないですか。そうではなくて、もっと市井の“編集者“の話を聞きたいのかなって、今思っています。

林 このワークショップでは、最初はすごく断片的な、もう小石みたいにちっちゃい情報から始まりますよね。でも、最初からいきなり全部説明したものをボンって渡されると、逆に困りますか。 

岡野 うーん。困るっていうか、それはなんかおもしろくない。

林 そうですよね。

岡野 投げあって変わっていくなかで、だんだん出来上がっていくのがおもしろいって感じ。

林 でも多分そのフェーズ、情報集めと編集して自分で組み立てるっていうのは、多分見える人も見えない人もやっているんだと思う。

岡野 そうですよね。だって、そうせざるを得ないですからね。

山里 自分で編集して鑑賞するフェーズは、映像が頭の中にある感じなんですか。

岡野 頭の中でだんだん出来上がっていくわけですよね。だからさっき林さんが言ったみたいに、全部説明されたものを贈与されるのが嫌なのは、見えてる人が編集した見え方のデータを単に渡されるだけだからなんですよ。僕がつくっているものじゃないから。

林 うんうん。

岡野 だから、なにか違和感がある。それより、得た情報で自分でつくりたい。要するに、料理みたいに出来合いの料理、はいカレーライスどうぞみたいなのではなくて、いろいろな材料をもらって自分で料理してつくった方が楽しいという感じ。だって、違うじゃないですか、自分で料理つくっていくのと出来合いのもの。やっぱり、つくる喜びみたいなのがあるのかな。

林 うんうん。でも多分、編集という作業があることを知らない人は、出来合いの料理を、つまり絵に関して出来上がった説明を受け取ることで 満足しているんじゃないですかね。料理を出す側も、そういうものだと思っている。

岡野 そう。いや、絶対そう思います。悪気なくね。

林 だから「みる行為」が「つくる行為」だとは思ってないんですよね。最初の話に戻るけど、編集しているって思ってない。

岡野 いや、普通思ってないですよ。僕だって見えてる時、全然思ってなかったです。

 

みんな他の部屋に行っちゃうみたいな

林 オンラインの写真美術館のワークショップに岡野さんが参加してくれた、野口里佳展※1の時のこと覚えてますか。

岡野 えーと、どういう写真でしたっけ。

林 えっとね、潜水士が潜っていく。

岡野 あれか。はいはい。

林 その時晴眼者の人たちが、本当説明しづらかったんですよね。いろんな言葉が出てくるときに、岡野さんが、ちょっと待って。ちょっと今ついていけてないから整理させてみたいにいう瞬間があったんですよね。

岡野 うん。私何度か、ちょっと置いてきぼりにされてるから待ってと言ったことは何度かあると思う。

林 あれは、あのまま行くと鑑賞できなくなっちゃうという感じがあったということですよね。

岡野 そう。みんなで納得して先に行ってるけど、ちょっとできてないんですけど、こっちはっていう感じ。

林 それはどういう状態なんですか。

岡野 ちゃんとイメージできてないんですよ。必要な情報が揃ってなくて、自分の中でちゃんとつくれていない。なんだろう。自分を残してみんな他の部屋に行っちゃうみたいな感じ。

林 ということは、見えてる人同士で納得できているけど、見えない人に伝わってない情報が何かあるということなんですね。

岡野 うん。見えてる人同志は暗黙に了解しているけど、なにかの説明がなくて、こっちは全然イメージできてないって感じかな。いくつかの情報で、ある程度イメージできるできないってあるんですよね。そこにあるキーワードとか、説明が入ったとか。それは、少しずつ段階的に組み上がってくわけじゃなくて、ある時結構わっと、 あーわかった、見えたみたいな。

林 うん。不思議ですよね。何のパーツがあれば、それがわーってなるんだろう。

岡野 それはこっちもわからないんですよね。言ってもらったこと、それでわかった!みたいな感じになる。

林 そうそう。何が材料になるかが、わからずにやっているのも、おもしろいところではありますよね。

岡野 うんうん。

山里 質問する時は、頭の中でここのパーツかけてるなと思って質問するんですか。

岡野 なんだろうな、いわゆるジグソーパズルみたいにやっていく感じではないんですよね。なにか衝動的に、すごくモヤモヤする、ここはどうなってるの?というのが湧いてきて、 色は?大きさは?とか、上はどうなってるの?とか、そういう聞きたくなる質問が湧いてきて、それを積み重ねているうちに、だんだん大体見えてきた、みたいな感じになるのかな。

林 あー、なるほど。

岡野 段階的にイメージをパーツでつくっていくという感じとは違いますね。

林 それも多分、見える人の多くは勘違いしているんだけど、四角いジグソーパズルの全部のピースを埋めればゴールと思ってる。

岡野 そうそう。それとは全然違うよ。あることがトリガーになって、わかった!ってなる。それがどういう風なのかって、ちょっと言葉では説明するのは難しいけど。

林 そうですね、これもいろんな人に聞いてみたいですね。

 

楽しいのはクリエイティブだから

岡野 それって言葉というものの深い部分ですよね、きっと。ただの単なる言葉で、ある特定の意味があるというのではなくて。

林 そうですよね。情報は多ければいいのではなくて、 言葉によって言葉にならないものの存在が見える。

岡野 だから、詩がそうですよね。

林 あー、そうかもしれないですね。

岡野 言葉の1個1個の意味じゃなくて、言葉の羅列で思いもかけないとんでもないものがガーンと出てきたりする。それは、散文と違うところで。

林 そうですね。だから、そこがやっぱり、大きな誤謬があるんですよね。 

山里 うーん。ギリわかったような、わかってないような(笑)・・・1個のものがどんどん積み重なっていく感覚ではないということなんですよね。

岡野 違いますね。積み木のようにやってくわけじゃないんですよ。いろいろな質問を繰り返して言葉が増えていくごとに、徐々にその画像のパーセンテージが上がっていくみたいな増え方じゃない。

林 なるほど。

岡野 さっきも言ったように、詩とかを読んでいる時のような、 なにかの言葉をきっかけに、いきなりなにかすごいイメージがゴーンと来るみたいな。

林 おもしろいですね、たとえるとすると詩なんですね

岡野 うん。散文の方が積み木的な感じがするんですよ。いろんな描写があって。急にがんって来るのは、詩の方がそういうことがある気がするな。

山里 詩だと、その言葉の意味以外の含みみたいなものも一緒に感じますね。

岡野 そう。言葉が持ってる多義性がいろいろな言葉を貫くうちに、無意識にも作用して、なにか大きいイメージがぐんと出てくるみたいな感じですよね。なぜそうなるのかはもう全然説明できないけど、 なるんだよみたいな。そういう、ちょっと不思議な感じかな。

山里 あー、なるほど。1個1個の情報がたくさんあるんじゃなくて、言葉が持っている多義性が前の情報と紐づいたときに一気に出てくる感じ。

岡野 そうそう。紐づいたとは意識してないんだけど、多分無意識のレベルでいつの間にか結び付きができて、なにか大きいものが吊り上がってくるみたいな。それはもう、意識下で動いているから、わからないんですよね。

山里 例えばジグゾーパズルの例えで言うと、100%のゴールが最初からあるような意識が多分あると思うんです。だけど100%がもともとない。けど、あ!ってなるじゃないですか。

林 うんうん。

山里 そうすると岡野さんの中で、鑑賞したって思えるゾーンがあるだと思うんですけど、いかがですか。

岡野 うーん、鑑賞したなというよりは・・なんだろう、ある程度満足いったという閾値はありますね。ちょっと不満、よくわかんない、イメージできない、みたいなのと、これはもう大体、感じがわかった、これぐらいならいいやっていう感じと。

林 なるほど。「鑑賞」って言葉も、あたかも100%があるようなイメージをあたえるけども。

岡野 そう、別に正解にたどり着くというようなものでは全然ないから。だから、解説みたいな感じは、そういうイメージですよね。極力情報をいっぱい与えればゴールにたどり着けるだろうみたいな。ソーシャルビューは、それよりもうちょっとクリエイティブな感じがします。

林 そうですね。

岡野 正解にたどり着くというよりは、色々な情報から自分でつくっていく。自分の脳がいろんな編集パターンになって、粘土をこねるみたいにつくっていく。だから、楽しいって感じるのは、そこがクリエイティブだからだと思うんですよ。正解にたどり着くように解説の言葉をいっぱいもらうのって、全然クリエイティブじゃないじゃないですか。

林 なるほど。

岡野 こっちは正解にたどり着きたいなんて思ってないんですよね。

林 うん(笑)。

岡野 もちろん全然違っていいとは思わないんだけど。でも、やっぱり得た情報で自分なりにつくり上げていって、イメージが出来上がって。それは自分がつくった感がありますよね。

林 そうですね。

岡野 それを人に見せて、比べて、なにかしらの交流があって・・・私も今話してて思ったけど、やっぱりそういうクリエイティビティがあるから楽しいんだなって、すごい思った。楽しいと思うのはそれなんだなって。

 

「みる」経験のインタビュー 岡野宏治さんの記事前編はこちらのリンクから

 

 

注1)2022年12月11日にオンラインで開催した、東京都写真美術館「野口里佳 不思議な力」展のインクルーシブ鑑賞ワークショップ 「見るときどき見えない、のち話す、しだいに見える」

 

(編集:森尾さゆり)