みる「みる」経験のアーカイブ Archive of 'Seeing'Experiences

「みる」経験のインタビュー

B子さん[前編]

これまで公開してきたインタビューを読んで下さった方から、感想が届きました。送り主は、インタビューの聞き手である林の古くからの友人、B子さんです。前編では、B子さん自身の経験や思いを、これまでのインタビューと重ね合わせながら語っていただき、いろいろな人の声を集め、公開していく意義について考えました。

●プロフィール

B子さん 1982年生まれ。長野県出身。小学校卒業あたりまでは弱視。現在全盲。
元々は美術には全く興味がなかった。聞き手である林が美術館に誘ったことをきっかけに、徐々に鑑賞の楽しさを感じるようになった。昨年結婚と同時に長年暮らした東京から静岡県に引っ越した。これまでとは違う土地で初めて出会う人や価値観に触れ、新しい自分を発見する楽しさに夢中。

聞き手
林建太
視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップスタッフ。1973年東京生まれ。鑑賞ワークショップでは主にナビゲータを務めている。美術や映画が好きで、そのことを語る会話の不思議さにも興味がある。

林 :B子さんとは20年くらいのお付き合いでしょうか。先日は、インタビュー記事の感想を送っていただきありがとうございました。その感想に、B子さん自身の「みる」経験がすごく現れていると感じて、今日は、是非そのお話から聞かせていただきたいと思ったんです。

B子:どこから話そうかな。じゃあ、まず、岡野さんの記事※1。「見える人も共通のものを見ているようで、それぞれに脳で編集しているから、見え方が違う」っていうお話をされていましたよね。それが私はすごく目からうろこでした。でも確かに考えてみれば、美術鑑賞の時に見える人が「ちょっとしたきっかけで見え方が変わった」って言うのは、つまり脳で編集してるってことですよね。

林 :そうですね。

B子:それで、思い出したんです。私、小学生の時は弱視で、盲学校じゃない一般の小学校に通っていたんです。学校で、例えば「今日は学校に咲いているアジサイの絵を描きましょう」っていう授業がありますよね。

林 :よくありますね。

B子:当時の私の視力だと、葉っぱがあったり、あの辺に花が咲いてたり、っていう大まかなことは捉えられるんですけど、絵に描くほど鮮明には見えなくて。私は、見たものをそのまま描かなきゃいけないって思ってたから、なんだかうまく描けなかったんです。周りの晴眼のクラスメイトの絵を見ると綺麗に描けてるから、「見えてるから全部綺麗に描けるんだろう」って思ってたんですよね。
でも、岡野さん説によると、見えてる人は全部見えてるけど、そのままを描いてるっていうんじゃなくて、脳でなにかしら編集しながら描いてるっていうことなんですかね?

林 :うん、そうだと思いますよ。

B子:後で盲学校に入ってから、弱視でも絵を描くのが上手い人はたくさんいるってことを知りました。つまり、小学生の私は、見えにくいから描けなかったんじゃなくて、ただアウトプットが苦手だったんだ、って。

林 :なるほど。

B子:でも、小学生当時の私は、「自分は上手に描けなくて、みんなは綺麗に描けるのは、私の視力が弱いからだ」って思っていました。正しくできない、普通にできないっていうコンプレックス。みんなは上手に描けている。つまり、正しくできている、だからみんなは普通、みたいな。

林 :うん。

B子:そういう思い込みを、日常的に、結構大人になるまで引きずっちゃってたんですよね。小学生の私が岡野さんの記事を読んでも、まだ難しかったかもしれないですけど、高校生とか大学生とかの時に出会ってたら、もしかしたら、もうちょっと自由な考え方ができてたかもって思いました。

林 :そうかぁ、なるほど。きっと見える人側にも思い込みはありますよね。

B子:それは、例えば?

林 :例えば、だいぶ大人になっても「目が見えない人は、美術とか映画を楽しめないんじゃないか」っていう誤解を持ったままだったりする。

B子:ああ、そうですね。美術作品は目で見て鑑賞するのが普通っていう認識が多数派だから、見えない人たち側も「そうだよね、美術作品は見て楽しむものだろうから、見えない私たちは楽しめないかもね」って思っちゃう。でも、みなさんの記事を読んだ感じでも、実はそんなことはないですよね。
多数派の普通に合わせなきゃって思い込みを捨てれば、目で見るのも方法の1つ、他にも、立体を手で触るのも、音声ガイドを聞くのも、対話を通じて鑑賞するのもありっていう選択肢が出てくる。その中で、例えばこの方法は?って知りたくなった時に、あのたくさんのインタビューが活きてくるなって思いました。

林 :今、私が気になっているのは、対話を通じた方法が広がってくるにつれ、今度は「視覚障害者には、対話を通じた方法が普通」みたいな認識が出てきてしまっていることなんです。視覚障害者だって当然ひとりひとり違った人間なんだから、合う方法が1つに偏るわけがないのに。
僕がこの活動を始めた2012年頃は、すでに言葉を使った美術鑑賞の活動はいくつもあった※2のに、「美術鑑賞は目で見るもの、視覚障害者は触るしかない」って考えもまだ社会に根強くあって、当時は、対話を通じた方法もあるよって声高に言わなきゃいけなかったんですよね。でも今度は、いろんな美術館や、研究者、影響力の大きい人がそれを認めてきたことで、権威性とか、優れているみたいな意味がくっついてきてしまって。

B子:なんででしょうね。一番いいやり方はこれ!って、決めちゃった方が分かりやすいってことなんですかね。

林 :うん、わかりやすさに飛びついてる感じはする。美術鑑賞ってすごくよくわかんないし、本当はいろんな方法があるから、そういうややこしさに耐えられなくて、メソッドが欲しくなっちゃうんですかね。

B子:教育だったら、メソッドがある方がいいかもしれないですけど、美術鑑賞は、学術的な情報を知りたい人もいれば、作品からどんな感情が湧いてくるかとか、対話による鑑賞なら他の人の見方に興味がある人もいるから、なかなかメソッドにするのは難しいですよね。

林 :そうですよね。

B子:私は、いろんな人の記事を読んで、美術鑑賞にはいろんなやり方があることがわかって、その中のどれを選ぶかは自由だし、それが多数の人とは違う選択でも、自分がやりやすいと思ったやり方や、選んだ方法、考え方に、自信が持てている状況だといいなって思いました。小学生の時の私みたいに「みんなと違うやり方だから普通じゃない」みたいな考えにならないで、「美術鑑賞の方法はいくつかあります。どれを選んでも自由です。みんなと違うものを選んでも、別に恥ずかしくないです」っていう前提があると楽しめますよね。

B子:何をもって、その作品を見たと思うのか?という話で面白かったのが、浦野さん※3の「作品と仲良くなった感じがする」っていうところです。

林 :独特な表現ですよね。

B子:それで、私はどうかな?って考えてみたんです。私は、気になる作品があっても、仲良くなったとまでは言えないです。まず、そこがちょっと違う。記事の中で「仲良くなる過程で、作家さんが徐々にこっちに歩いてくる」なんて話題がありましたけど、私の場合は、私が作家さんのところに押しかけていって、いろいろ話しかけたくなる感覚です。それで仲良くなれるかはわからないけど。その違いがまた面白かったんですよね。

林 :あのインタビューでは、鑑賞中に、作家を交えて作品を考えることが大事らしいことが、わかってきたように思います。その点ではB子さんも似てますね。

B子:そうですね。作品とか作家さんに、ばーっと押しかけていって、話しかけて、いっぱい知りたいっていう感じ。

林 :そうすると、押しかけるべき方向が分かることが、大事なのかもしれない。

B子:確かにそうですね。

林 :浦野さんとの話では、みんなでワイワイ話せる場を作れば、どこからともなく作家が近寄ってくる感じだったんですよ。でもB子さんの場合は、違うんですね?

B子:はい。ニュアンスが違いますね。

林 :これって、今は、仲良くなるという言い方しかできないけど、鑑賞の途中に現れる何かを捉えた言葉かもしれなくて、他の人も自分の場合を考えられる可能性があると思うんですよ。インタビューを読んでくれた人が「私の場合は?」って、今までになかった種類の疑問を持ってくれたらいいなと思っていたので、今、B子さんの場合を聞かせてもらえて、また面白さが広がった感じがしています。

B子:あれはなんとなく浦野さん独自の表現っていう感じがしますね。

林 :もしかしたら浦野さんしか言ってないかもしれない、見えない人特有なのかどうかもわからないような、すごく個人的なことやすごく途中のことにスポットを当てて、集めて公開したかったんです。

B子:私は、作家さんのところに行って話しかけたいけど、現実には難しいじゃないですか。だからこそ、作品や作家の情報をもっと聞きたくなったり、他の人がどう思うか聞きたくなったり、もっといっぱいしゃべりたくなるのかもしれないですね。

林 :例えば、作家を知ることが美術をみる醍醐味の1つだとしたら、近づきたい相手が見えた時に、初めて、方法を考えるんじゃないですかね。

B子:ああ、確かに。

林 :鑑賞の楽しさって、ひとりひとり目的が違って、たくさんの出口があるはずなのに、それが誰かに決められちゃってることが多いように感じるんですよね。
たまに、ワークショップが一通り終わった後に、目の見える人から見えない人に「今日は作品がわかりましたか?」って質問が来るんです。それで、見えない人が「いや、わからなかったけど、楽しかったです。それでいいんです」って言うと、見える人がちょっと複雑な、物足りなそうな感じだったりして。

B子:ああ、そうなんですね、やっぱり。佐藤さんの記事※4にもありましたね。「わからない時はわからないけど、そのわからなさもいいのよ」みたいな話。私も、わかったかって聞かれると、「正直ぼやっとしてるんだけど、でもなんか楽しかったです」っていう時は割とよくあります。

林 :そうですよねえ。

B子:逆に、わかったってどういうことなのかなぁ。理解したって実感できるのは、学術的な情報の部分くらいでしょうけど、私は、そこはあまり重視してないから。

林 :あと、「形が把握できましたか?」っていう質問も。まあ情報に近いと思うんですけど。

B子:立体に触れる場合は別ですけど、それも、他の方も言っていたように、パズルのピースが全て揃うことを目的にしてないから。目で見ている人が、見えない人にどんなに頑張って説明したとしても、想像が100%一致するってことはありえない。ありえないから、いろいろ言葉が出てきて、また違った気づきがあったりするんだと思うんです。

林 :そう。たぶん、見えている人の目はカメラとは違うから、見えていることを1個1個言葉に置き換えようとすると、その人の脳の編集の仕方があらわになっちゃうんですよ。

B子:ああ!なるほど。

林 :だから絶対一致しないし、だからこそ面白いと思うんですよね。でも、私達のワークショップに、「一致するのが正しい説明だ」って考える人が集まってきたら、「目の見えない人にちゃんと説明するから、ちゃんとついてきて受け取ってくださいよ」っていう場に全員を引きずり込んでしまう危険は常にあると思っています。
それもあって、見えない人の「見える人と自分の想像を一致させることを目的としてないよ」とか、「頭の中で再現してないよ」って声を伝えたいんですよね。他の人も「そうだそうだ!」って言えるように。

B子:そうだ、ずっと前に何人かで一緒に美術館に行った時、一緒にいた人が、すっごく詳しく絵を説明してくれて、最初は想像してたんですけど、情報が多すぎて、めんどくさくなってぼーっとしちゃってたら、林さんが横から「あ、B子さん、別に全部説明してもらわなくてもいいよね?」って言ってくれたんですよ。その時は心の中で「そうなの!そうなの!」って言っていただけでしたけど。

林 :細かく説明しなきゃいけないという思い込みも根強くありますよね。

B子:全部教えてもらっても、逆に分かりにくくなっちゃうこともありますね。

林 :でも「美術鑑賞では情報は少なくていい」って言い方をすると、それがメソッドみたいに扱われてすごい勢いで広まってしまう心配があって。話の一部を切り出したものが広まるのではなくて、見える人と見えない人が一緒にいろんなことを話し続けていける場が増えて、「出口はいっぱいあるよね」っていうことが広まるといいですよね。

B子:亀井さんのインタビュー※5で印象的だったのが、全盲の人が「実は触図は触りたくないんだよね」って言ってたところで。その人も最初は遠慮してたんだけど、長年の信頼関係とかから、きっと、もう言ってもいいか!っていう瞬間があったんでしょうね。自由に意見が言える場ができてたんだなぁって思いました。

林 :ええ、そうですよね。ちなみに、B子さんは、触図は触りたいですか?

B子:えーとね、うーん、まあ、なくてもいい、って感じですかね。

林 :もし出されたら、いらないって言えますか?

B子:あっ、言えないです。というか、言えなかったです。以前は触図を出されると、一応触って、何か感想を言わなきゃってプレッシャーにも感じてました。

林 :ニコニコして感想を聞かれたら、言葉も選びますよね。

B子:そうですね。だから最近は、「私は触図が苦手なので、できれば言葉だけで説明を聞いてみたいです」って伝えるようにしています。伝えた方が、相手にも、見えない人にもいろんな好みがあるって知ってもらえると思うし、何より自分が好きな方法で鑑賞できた方が楽しいから。なんでこれまで必要以上に気を遣っていたんだろうな。

林 :そこに気遣いが生まれるのは、場を作る側からのおもてなしになっちゃっているからだと思うんです。それは、自由な鑑賞ではないですよね。

B子:ああー。やっぱり大事なのは、方法を選択できることだと思います。触図を触る方が好きって言う人ももちろんいるから。「どっちにしますか?」って聞かれたら「あっ、私は使わなくていいです」って言いやすい。クレームを言ってるわけではなくて、作品鑑賞について自分の好みや要望を伝えているだけなんだから、私たちも自分の思いを主体的に伝えていいはずですよね。

林 :そうですよ。

B子:ここ数年、『いろんな人がいて、それぞれがそれぞれの生き方を認め合いましょう』みたいな、多様性の尊重の流行を感じますけど、自分も含めて、世の中がまだ意外とピンときていない気がするんです。その多様な人の中には、もちろん、目が見える人も見えない人もいるし、見える人の中にも見えない人の中にも色々いる、ということであるはずですよね。
でも、座談会の記事※6で中川さんが「結局見えることがゴールになっちゃう」みたいなことを言ってたように、結局、ゴールは健常者の常識に偏ってる気がしちゃうんです。

林 :美術鑑賞には本当にいろんな方法や、いろんな経験があるのに、声の大きい人の主張にまとまって単純化されてしまう雰囲気を感じていて、そうじゃなくて、1人1人にちゃんと話を聞きたいなと思って、インタビューを集め始めたんですよね。私達がやっている鑑賞方法の中だけでも、すごくたくさんの経験が生まれているし、決して、みんなが同じ経験をするための方法ではないし。

B子:ああ、なるほど。

林 :今日話してきたようなことも、日常に近い言葉でしゃべるインタビューならすくい取れる気がして、このやり方を選んでいるんです。B子さんは、今日お話ししてて、インタビューだからこその良さとか面白さってあると思いますか?

B子:私は今日、本当に思いつくまま、考えたままをしゃべっていました。話をまとめるのはお任せできるから。対話形式なので、話している間に考えが浮かんだり変化したりもするじゃないですか。本当は、いろいろな部分って、まとまらないから話せないんだけど、でも、しゃべりながらなら、なんとかお互いに伝え合おうとできるところもある。

林 :うんうん。

B子:もし、短く質問に答えてくださいっていう形だったら、私は、「これはもう、まとめられないからやめとこう」っていろいろな部分は省いちゃって、結局ありがちな回答になっちゃう気がします。でも、このインタビューでは、私としては、伝えたいことは伝えられてるんじゃないかなという気はしているんです。

林 :私もそう思います。一問一答で、例えば「目が見えないのに、美術館が好きなのはどうしてですか?」なんて聞かれたら、無理やり言葉にして出せるけど…

B子:うん、めんどくさい!

林 :的確に言うのはすごく難しいですよね、きっと。

B子:そうなんですよ。それに、たぶん、まとめて言っちゃうと伝わらないです。

林 :「美術館が好きなのはどうして?」っていう質問自体、「えっ、珍しいね」っていう響きがあるしね。

B子:あっ、そう!

林 :見える人にはそんなに聞かないじゃないですか。

B子:見える人だったら「美術館が好きなんですね。例えばどんな作品が好きなんですか?」なのが、見えない人が相手だと、「美術館好きなんですね。えっ、見えないのにどうやって鑑賞するんですか?」とか「どうして?」っていう方向にいっちゃうのは、やっぱり、美術鑑賞は目で見るのが普通って考えが強いからですよね。

林 :ですよね。そんな非対称なコミュニケーションでは、ただでさえ言語化しにくいものを、一生懸命に語って相手に預けようという気にはなれないですよね。

B子:そうそう。そうですね。

林 :言語化するってとても難しいことだし。

B子:このインタビューでは、言語化しにくいこともすくい取ってもらえたら嬉しいなぁって思います。

林 :はい。言語化しにくいことが、きっとインタビューの中に空気を含むように入ってると思うんです。そうやって、ここに、言葉にできなさがまだあるよっていうのを、ひとまず伝えていく、そこに意味があるんじゃないかなって思っています。

※1 岡野宏治さんのインタビュー記事 
※2 2012年頃は、すでに言葉を使った美術鑑賞の活動はいくつもあった、とは、例えば、「ミュージアム・アクセス・グループ MAR」「ミュージアム・アクセス・ビュー」「ギャラリーコンパ」など。
※3 浦野盛光さんのインタビュー記事
※4 佐藤・コルヴィーさんのインタビュー記事
※5 亀井幸子さんのインタビュー記事
※6 スタッフ座談会[前編]みる経験の記事

(編集 熊谷香菜子)

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