音楽に似ている
林 :私たちのワークショップに最初に参加してくださったのは、2022年の国立新美術館でしたよね。
渡辺:はい。伊藤亜紗先生の「目の見えない人は世界をどう見ているのか」※1を読んだのがきっかけで、国立新美術館の李禹煥(リ・ウファン)の展覧会※2に参加しました。その後も2回参加しています。
林 :伊藤さんの本では、私たちのワークショップのこともわかりやすく紹介してくれて、いろんな人に知ってもらいましたね。では、その時のことから聞いてもいいですか。終わった直後の気持ちとかは?
渡辺:終わった直後は…、友達と行っていたんですけど、六本木の鳥貴族に二人で行って、そこで、めちゃくちゃしゃべった記憶があります(笑)
林 :へぇ、そうなんですね。
渡辺:最初のワークショップの体験は、私にはめちゃくちゃ刺激的で、頭の中に、いろんな言葉にならない衝撃、「なにこれ面白い!」っていうのが駆け巡って、頭がドクドクするっていうか。それで友達と面白さを語ってたんだと思います。
今日は、その時の日記を持ってきたんですけど、6ページとか7ページぐらいばーっと書いてあって。
林 :すごいですね!
渡辺:よっぽど、興奮してたからだと思います。
林 :それは、普段展覧会を見る時の経験とは違っていたから、そういう刺激になったんですかね。日記は、お友達と別れて、ある程度冷静になってから書いたんですか?
渡辺:そうですね、その日の夜に書いてます。本当はワークショップが終わってからも、グループの方ともう少ししゃべりたかったんですけど、友達と来てるし、まだ誘える勇気がなくて。お礼を言って、いそいそと帰った記憶があります。
林 :初めて参加された時って、言葉で発する難しさもあるだろうし、緊張もされたかと思うんですが、ワークショップ中はどんな感じだったんですか?
渡辺:じゃあ、日記を見ながら話しますね。今の、2025年時点での私の印象は、この日記が根っこになっているので。
まず、ワークショップに参加して、「まっすぐモード」と「グニャグニャモード」、2つのものを言葉にするのが、すごく新鮮で、面白かったです。
林 :私がいつも冒頭で話しているものですね。鑑賞中のおしゃべりのモードとして、目的に向かって一直線に説明するような「まっすぐモード」と、目的もゴールもない友達同士の雑談のような「ブラブラモード」の両方を自由にやろう、と。それと、色や形などの「みえること」と、印象や心に浮かんだ「みえないこと」、あと「わからないこと」も言葉にしていきましょう、という話もしましたね。
渡辺:そうです。それをどうやって実践していくのかなって思っていたら、例えば、綿と鉄板のキューブ型の物体※3を見て、「綿が出てます」って誰かが言うと、「出ているんじゃなくて、外側にくっついてるのかと思った」って言う人がいたり。絵画の作品※4では「筆で描いたような」って言うと、「筆っていうか、湯飲みが光に当たった影みたいな感じがする」とか、「奥に深い洞窟があるのかと思った」とか言う人がいたり。こうやって言葉が交差していく感じなんだって、ワークショップ全体の流れがなんとなくわかってきたところで、私が、見えないナビゲーターの方と一緒に歩く役目をすることになるんですね。
林 :移動する時に、隣で腕を貸す感じで。
渡辺:はい。私はこれまで経験がなかったので、その方の隣で、物音を立てず、自分の独り言も抑えて、静かに人の話を聞くっていうモードに入っていて。次の作品に移って、ワークショップの流れをもう一回、改めて体験したときに、多分無自覚に、めちゃくちゃ耳に集中しちゃった状態だったんだと思います。どんな人が言ってるかや、言い方とかにフォーカスしていて。で、それが最終的に音楽っぽいなぁって思ったんです。
林 :そう、渡辺さんの感想として、作品を鑑賞する経験を、まるで音楽のようだとおっしゃることが、とても興味深いんですよ。
渡辺:普段は情報を文字で追うことが多いんですけど、この場では、声で追うことになって。しかも、それが発言者に固有のリズムやスピードで発信されていくものだから、待つ時間がすごく長くて、待ちつつ、取り入れていく。時間によって構成されている体験だなぁって思いました。
林 :時間芸術みたいに、音とか言葉が加わって動いていくようだ、とおっしゃってましたよね。
渡辺:「音楽は、対象が目の前にできなくて、時間によって再現される」っていう定義を音楽美学の何かで読んだんですけど、それを思ったときに、目の前の物がそんなに重視されてなくて、人から言葉で印象が入ってくる、時間によって体験するっていう意味では、このワークショップでの鑑賞は、すごく音楽鑑賞と類似してるなぁって思ったんですよね。
それと、全部見終わったときに、見えない人の美術鑑賞がどういうものかが気になって、「言葉から美術が立ち現れていくって、どんな感じなんですか?」って聞いたら、時間軸に敏感というか、余韻が長い感じ、とおっしゃっていて。それもすごく印象に残ってるんです。1つ1つの言葉を味わう、その余韻を長くとって、時間によって芸術を生成していく感じかなぁと思うと、めちゃくちゃ音楽と似てるって、その時思いました。
国立新美術館 李禹煥展 ポスター
渡辺:同じグループになった方、それぞれにキャラクターと物語があって。それを最初に自己紹介で聞いて、ああ、こういう人たちがワークショップに来てるんだなーっていう印象がありつつ、ある人が、「これは優しそうな感じがする」と言うと、自分の印象が、発言者のキャラクターにめちゃくちゃ影響されてて。きっと違うグループにいたら全然違う時間が流れていたと思うし、その個別性にすごく意味があるんじゃないかなとも思いました。
林 :ええ、きっとグループごとに違いますよね。
渡辺:みんなが発言をして、そこで、「ああ、確かに」とか「え、なんだろう」とか、ふっと立ち上がって、ふっと消えちゃうぐらいの心の動き、なびきみたいな。その連続を2時間で味わう感じで。だから、他の美術鑑賞とは全然違うものだと思いますね。
イタコになる方法
渡辺:ナビゲーターの方の、再確認する質問にびっくりした記憶があるんです。
林 :それは、見えないナビゲーターの質問ですね?
渡辺:そうです。「こういうものがあるの?」って、物理的に確認することもだし、印象をさらに分岐して「Aな感じ?Bな感じ?」って確認したり。誰が発言したかを覚えていらして、「誰さんも言ってたけど」って言う時にその人の方を向いていたり、車椅子の方に「誰誰さんからだと視点が低くなると思いますが」って言っていたりとか。私は作品に全部集中しちゃって、他の人の視点の違いは視野に入ってなくて、その方の発言で気づくことがたくさんありました。そういうやりとりの中で、自分が視覚的にどう見えるかが、大したものじゃなくなっていく感じがあって。
林:はい。
渡辺:聞かれて、また自分が答える中で、自分の最初に思った印象が成長していく、見え方が全部変わっちゃうまではいかなくて、変わる点もありつつ、残る点は成長していく、自分の中でもっとはっきり分かっていく、そういう体験だった記憶があります。
だから、わからないまま終わるポイントもある。なんで鉄板と綿なんだろうとか、その答えは出ないけど、でも、人と会話していくことで、わからない点が、ふわふわと空に行きながら、自分の最初の印象から育っていくっていう面白さがあったと思います。
林 :なるほど。
渡辺:なんか、私は、見えている情報にあんまり固執せずに、人の見方に入り込めるタイプなのかな、とも思っていて。作品も見るけど、あんまり視覚的に引っ張られないように、他の人の顔とか天井とかいろんなところを見ていました。だから、自分はもしかしたら、イタコみたいな感じで、他の人の見え方になろうと思えばなってみるか、って、入り込めるタイプだから、時間で鑑賞するところにフォーカスしたのかなぁって思います。
林 :なるほどなぁ。私の場合は、例えば、彫刻なら彫刻そのものが、バーンと目に飛び込んできちゃうから、それ以外の空間や周りの人の見え方にフォーカスを替えるのが難しく感じます。
渡辺:もしかしたら前情報があったからかもしれないですね。 伊藤先生の本を読んで、「ソーシャル・ビュー」ってすごく面白そうって思っていたから、視覚に引っ張られないように、意識的に周りに集中していた面もあるかもしれないです。
林 :「ソーシャル・ビュー」というのは、美術作品を囲んでみんなで話すプロセスを、その本で伊藤さんが名づけたものですよね。
本では、タイトル通り、目の見えない人の経験について注目しつつも、第四章で、その本質は見えない人に限った話ではないんだ、と、ちゃんと書かれてるんですよね。
本質は、見える人と、見えない人のやりとりにあるのではなくて、他者の目で見るところにある。だから、見える人にとっても、他人の目を借りて、その人の見方を自分にインストールするみたいなことが起きて、今目の前で見てた作品がぐにゃりと動いてしまったかのように見えてしまうんだ、と。これは本の言葉そのままではなくて、私の理解で言いましたけど、つまり、実は、目の見える人の中でも、すごく変化が起きてますよねって、とても大事なことを、さらっと言っているんですよね。
渡辺:伊藤先生って、大事なことをさらっと言いますよね。
林 :それを読んでいたので、ある程度構えができていた感じなんですかね。
渡辺:構えてたかもしれないですね…。
でも、始まった最初はがっつり対象作品を見ていました。私が物理的に気づいたことは、そういう場で自分から発言できる、前のめりな感じの方が絶対言ってくださるので、私は発言を聞きながら作品と照らし合わせて、「確かに青いな」とか確認しつつ、それでもまだ誰も言ってない情報を言っていく感じでした。
林 :それは、《対話》っていう絵画の時ですか。
渡辺:そうだと思います。最初はまっすぐモードで言葉にしようって思っていて。でも、そこから、言葉や印象を、他の鑑賞とは全然違う形に分類していた記憶があって。
林 :どういうことですか?
渡辺:1人で美術鑑賞をする時は、物理的な色とか大きさや物と、印象を混ぜこぜに、もはや一文にして「ここのこれがこうだな」と、ぐちゃぐちゃっとした感想を頭の中に想起させる見方になっちゃうんですけど。その時は、最初の説明で、見えているものが、物理的な情報としてどうかと、印象としてどうかを、分けて、分類して、解体して、言葉にしていこう、って言われて、自分の中で枠組みが作られてから見たから、より視覚的な対象と自分の間に距離ができた、というか。
林 :あぁ。
渡辺:いつもだったらのめり込んじゃうところを、この形式だったから、最初から距離を取って、人の見方も柔軟に取り入れられたのかなぁ、って今思いました。
林 :ああ、なるほど。あの解体作業って、日常生活でやることありますっけ?
渡辺:どうだろう。 例えば、映画の話をする時に、あらすじや登場人物の情報と感想は、意識的に分けて話すと思います。でも、日常的にはないですよね。だけど、最初の説明で聞くと、できるような気がするんですよね。悩むことなく分けられたのが不思議です。
林 :もしかしたら普段から意識してらっしゃるからかもしれないですね。その作業によって、作品との距離がちゃんと取れたから、他の人の見方もうまく取り入れられた、っていうことですか?
渡辺:そうですね。
林 :だから、自分の見方も変えることができた、というロジックですか?
渡辺:そうですね、うん。
グニャグニャ
林 :ソーシャル・ビューの場で、目の見える人に起きる変化って、なかなか話題にならないし、語られる場もないんですよ。だから、詳しく聞きたいなと思っていて。
渡辺:見えるのに、なんでそういう印象を持つかっていうことですか?
林 :そうです。見ているものって、本当は見ていなかったり、見間違えていたり、見てるものがグニャグニャ変化したりするのに、視覚を使えば全部はっきり見えるものっていう思い込みが常識とされていて、その実際のポンコツさに気づくことって難しいと思うんです。
渡辺:うーん。当時、どう思っていたのかわからないですけど…。一緒に行った友達は彫刻をやっているんですけど、いつも面白いことを話してくれるんです。彼女は美術作品をあんまり高尚なものと思ってない節があって。芸術って「この意味がお前らに分かるか」みたいな、偉そうな立場にあるんじゃなくて、もっとくだらないもので、すごさは、そのくだらなさにあるんだ、みたいな。そういう話を2人ですることもあって。
林 :はい。
渡辺:だからですかね。作品がどういう色で、どういう形で、自分にどう見えてるかっていうことより、そこに来た人たちにどういう意味を持つか、人がどういうふうに感じて、どう言葉にするかっていうことに、興味があるのかもしれないです。あんまり意識することはなかったんですけど。
林 :ああ。
渡辺:私の大学院での研究が、音楽を聴くことについてなんですけど、それも音楽そのものではなくて、一人一人がそれぞれに持つ唯一無二の意味づけが、人生経験でどう更新されていくか、を考えたいんです。そこにもつながるのかもしれないですね。受け取った人が、どういう人生の中で、どう意味づけをして、どう言葉にするのかっていうことに、しつこく興味があるので、作品そのものよりも、人の解釈の方が知りたいっていうこだわりが、美術に関しても音楽に関してもありますね。
林 :なるほどなぁ。
国立新美術館 李禹煥展でのワークショップ風景
(この写真で鑑賞している作品は、話の中には登場していません)
渡辺:なんでそう思うのかと考えると、個人的な「こう見える」って、誰かに「そう見えない」って言われちゃったら、強く誇示できない気がしていて。真逆の意見を言われたときに、すごく脆いもののような気がするんですよ。客観的に証明できないし、しなくてもいいし。だったら、自分の中にある「こう見えた」っていうところを更新していくことで、より自分にとって、鮮度が良くて健康的な意味付けができるんじゃないかなって思います。
林 :つまり、グニャグニャ動いてもいいってことですか?
渡辺:そうです。なんか、今初めて考えたことなんですけど、「この作品はこうだと思う」って、自分にしかわからないことだし、自分の中だけで完結したっていい、人にうまく説明できなくてもいい。そういう主観的なものって自分の支えでもあり、自分の弱さにもなり得るような気がするんです。
林 :はい。
渡辺:ある意味、自分を守ってくれる避難所みたいな、パーソナルな部分ではあるんだけど、でも同時に、めちゃくちゃ守ってあげないと、ロマンチックなものを壊す要因が外から来たときに、パリーンって壊れて、自分の奥まで壊されちゃうような。外側はすごく硬いんだけど、内側はめっちゃ弱い、そういうナイーブさがあるような気がして。
美術や音楽を鑑賞する上で、自分の主観ってめちゃくちゃ大事にしたい。でも、それが壊されちゃったときに、根本から自分が崩れちゃうようなこともわかってるからこそ、殻を作って、内側を守るんじゃなくて、見え方を更新していくことで、そのパーソナルな部分を守っていくみたいな。普段そういうものを意識しているんだと思います。
だから、見え方を変えていくことにそんなに抵抗がない。グニャグニャしてる方が逆に安心するというか。硬いものが折れる不安がないというか。だから、そうですね、グニャグニャが好きなのかもしれないです。
ゆっくりと、時間の波を楽しむ
林 :具体的に、例えば《対話》を見ていたとき、渡辺さんの中では何が起きていたんですか?
渡辺:その作品を見ていた頃から、ナビゲーターの方の移動のサポートをしているんです。経験がなかったし、隣にいるから、その方の発言とか振る舞いにすごく集中して意識してしまっていて。そこで、受容のすごさを感じたんですよね。日記にも「受容のプロ」って書いてあって。
林 :それは、どういうところからですか?
渡辺:そもそもサポートしている自分が緊張状態、自分に任せて大丈夫かって不安な中で、私の横でものすごく親切にサポートを受けてくださって。自分が嬉しかったのかな?自分がサポートしていることと、スタッフの方が他の人の見え方を受け入れて確認したり、「ふーん」ってうなずいていることにものすごく感動して。
というのは、普段の生活の中で、見える人同士だったら、相手の思いを確かめるより自分の思いが先にあって、「え、なんで?」とか、「もうちょっとわかるように言って」みたいな返答になりがちなところを、相手を一回受け入れた上で返答するっていうのが、新鮮で。
林 :サポートしながら、「この人は受容してるんだ」って思っていたわけですね。サポートの立ち位置もあったことで、渡辺さん自身も、自分で作品をよく見てよくしゃべるっていうよりも、ちょっと受容寄りになっていたんですかね? チャンネルがナビゲーターの人と少し同期したというか。
渡辺:ああ、そうですね。腕が触れた状態でずっと作品を見ていたんで、体が近い分、同期してたのはあると思います。
林 :その、受容モードっていうのも、結構大事なポイントかもしれないですね。
渡辺:そうですね。自我がちょっと静かにしてる感じっていうか。
林 :ああ。
渡辺:ワークショップが終わったら、自分の自我もまたにょきにょき起きてくるし、その前も全然元気にしてるんですけど。ちょっと自我が静かにしている感じが、受容モードかもしれないです。
林 :私はナビゲーターとして意識的に自我を引っ込めることはありますけど、それとはまた別だと思うんです。どうやったら受容モードになれるんでしょうか?
渡辺:どうだろう。今、お話ししてても思うんですけど、自分が感じたことを丁寧に言葉にしたいと思うと、ゆっくりしゃべることになりますよね。ワークショップでも、みんながゆっくりと、1つの言葉を選んで、確かめながら、発言されていて。日常生活だとなかなかできないスピード感だと思うんです。どうしても、相手に気を使って、会話のリズムに自分が乗っかる形で、会話しちゃう気がします。
あの時は、みんなが何をしゃべったらいいか迷っていたから、発言がポンポン出てこなかったっていうのもあるけど、みんなが、せかさずに、その人が言葉を選んで納得のいくようにしゃべるのを待っていた。それは、その人が今は言葉を選んでるっていうところに、全員が尊さを感じて、待っていたように思ってて。その時間が、「私はこう思う」っていう自我を落ち着かせてくれてたのかなぁって思います。
林 :言葉がないところに、自分の言葉を急いで差し込むんじゃなくて、言うこと自体をちょっと待ってみる、ということですか?
渡辺:普段の会話だったら、相手の言葉が出ない時の沈黙が気まずくて、前後の流れで推測して、自分が言葉を出すことがありますけど、ワークショップの中では、その人が、感じたことを今ゆっくり言葉にしようとしていて、その時、私はその人が何を言おうとしているのか、全然わからなくて、ただ、待つしかなくて。だから、自我がちょっとお休みしてた感じがあります。
林 :ああ、そうですね。
渡辺:先日の、きくたびプロジェクト※5でも、新宿御苑の中をゆっくり歩くっていうのがすごく楽しくて。ゆっくりっていうのが面白いですね、私は。
林 :自然とそういうスピードになりましたね。
渡辺:何メートルぐらいでしたかね?500メートルぐらいかな。
林 :たぶんそうですね。
渡辺:そのくらいの距離を1時間ぐらいかけて、見えるものを言葉にして。植物とか木の根っことかを見て、「ここがこうなってる」って言うのを、みんなで「ああ、そうか、確かに」とか言って、ゆっくり歩いたのが、私はすごく面白くて。それもやっぱり、差し迫ったものに追われずに、人の言うことに時間を使う感じ。それが自分にとってすごく贅沢で面白かったのかなと思います。
林 :時間の使い方が大事なんですね。じゃあ、李禹煥展で絵画を見てたときも、何か劇的なことが起きたのではなくて、いろんな人の意見を待って聞いて過ごした、というような時間的な感触が残っているんですか?
渡辺:見え方がガラッと変わったというより、じわじわ、ワークショップの中で感じていったって感じです。
林 :あぁ、そうなんですね。渡辺さんが時間の流れ自体をすごく慈しんでいる感じがしていたことに、今、改めて気づきました。
渡辺:私は1個1個の言葉より、全体の時間の流れが楽しかったですね。
林 :それはどういう感じなんですか?音楽が鳴ってるみたいな?または…、湯船に浸かってるとかそういう感じですか?
渡辺:あ、ワークショップが終わったときは、お風呂上がりみたいな感じかもしれない。
林 :ああ、そうなんだ。
渡辺:なんか、体がぽかぽかしてて、みんなでお風呂の外に出てきた、みたいな感じがしますね。うーん、なんだろうな。
林 :言葉がたくさん重なっていく場ではあるんだけど、渡辺さんにとっては、何かがじんわり変わっていく経験になっていたわけですね。
渡辺:そうですね。作品ごとにブロック分けされた時間があるんじゃなくて、始まってから終わるまでが、全部いっしょくたになって、全体の流れ自体が鑑賞というイメージです。
ハッとするような言葉って、思ってなくても言おうと思えば言えると思うからこそ、本当はその人はどう思ってるのかに、自分は興味があって。それを確かめる手段が耳だったんだと思います。
細かい息の感じや抑揚に細かく耳をそばだてることが、その場でその人の感想を聞く上で、自分にとってすごく重要で。最初から最後まで聴覚に集中していたから、全部いっしょくたで。
林 :なるほど。
渡辺:流れの中にある発言の面白さを感じたいからこそ、ずっと耳を集中させて、その都度の、高まりとまた静まっていく感じみたいな、その波を、鑑賞中ずっと体験していたような感じがしました。だから、終わってからは、スポーツし終わった後みたいな、野球っていうよりサッカーみたいな、お風呂みたいな感じで。
林 :言葉のやりとりを、音とか声として捉えている感じなんですね。
渡辺:今、聞かれて初めて実感しました。その気持ちの抑揚っていうか、時間の波が楽しかったんだなぁーって。
言葉と作品の関係
林 :渡辺さんは、どうやって記憶を保存しているんですか?私は、テキストの記憶が多いんですけど、スタッフの中には単語っていう人※6もいたし。
渡辺:新鮮なうちに、覚えていることを消えないように日記に書いて、で、そのテキストをもとにいろいろ思い出しているので、この日記が軸にはなっていますね。
林 :そうすると、インデックスはテキストなんですかね。
渡辺:でも、なんだろうな。美術館に行く度に李禹煥展のことを思い出していて。見たものをしゃべる面白さを知っちゃったから、同じことをするわけじゃなくても、その時のぼやっとした記憶を「このあったかい感じ」みたいに、感覚的に思い出すことがよくあります。あとは、大学院で研究テーマを決める時とか研究計画書を作る時に、ソーシャル・ビューについて書いているうちに思い出したりもして、両方ありますね。
林 :そうですよね。ソーシャル・ビューという名前が示すように、言葉が中心にあるわけじゃなくって、ソーシャルな空間と見るっていう経験だから、テキストに限らず、色々な思い出し方ができるはずですよね。
渡辺:本当にその時の時間が大事で、経験を持ち帰るみたいな感じですね。
林 :それは経験だから、捉えて残すことがすごく難しいものですよね。それで、音楽は音のことである、美術はビジュアルのことである、って考えになってしまうんですかね。
渡辺:音楽で言うと、今は録音技術の発展で、録音物に本質があるとされがちですが、私も何回も同じ曲を聴くのが好きで、それって変わらないものを繰り返してるんじゃなくて、聞いてる自分は更新されてるって、めちゃくちゃ思うんですよ。例えば、悲しいことがあったときに聞くその曲のその時の時間の流れと、なんとなく電車の中で再生したのとは、感じている自分の時間の中身は全然違う。音があるんじゃなくて、聞いてる自分に本質がある。私は、そのあたりのことを研究したいんです。
林 :どうしても、一般的には作品に本質をくっつけがちですよね。美術作品なら、目で見るか目で見ないか、見る人によっても全部経験するものは違うし、1人の人が見てても毎回違うはずなのに。もうちょっと人のみる経験にも本質を見出せないですかね。語られた言葉の方に本質を見出すには、どうしたらいいんでしょう。
渡辺:芸術作品と言葉の関係性にはいろんな考え方があると思うんですけど、作品に答えがある、作者が答えを知ってる、って思わずに、自分が答えを作る、みたいな見方だと、作品との距離感ができて、自分の言葉にフォーカスが行くのかなぁって、今、直感的に思います。
音楽だとポータブルなものだし、割と個人的な意味に閉じこもることができると思うんですけど、美術作品は美術館にあるし、そんなに頻繁にご対面できないから、作品の方に権力があって、ちょっとお高くとまっているというか。
林 :本物が1つしかない感じはありますよね。
渡辺:だから、作品や作者が言うことを頑張って解釈するみたいな見方がどうしてもあって。それで言葉と作品がすごくくっついて、作品のために言葉があるみたいな気になっちゃう。
でも、そうじゃなくて、自分の感じたことをベースに、逆に外側から作品を作っていく、見た人たちが、作品の意味を作ることで、作品は完成するんだ、ぐらいのわがままさがあると、美術作品のためでありながら、言葉が自分のものとして所有できるのかなぁと思います。
すごく無責任にしゃべってますけど、私はその個人的な経験の方に興味があるので、やっぱり、私が意味を作るっていうわがままさが大事かなって思います。
※1 伊藤亜紗著「目の見えない人は世界をどう見ているのか」光文社新書 2015年 書籍紹介ページへのリンク
※2 国立新美術館開館15周年記念 李禹煥 展覧会ページへのリンク
※3 李禹煥 《構造A 改題 関係項》(1969/2022)
※4 李禹煥 《対話》(2009、2009、2010)
「李禹煥」展メイキング動画で0:55頃から《構造A 改題 関係項》(1969/2022)の、1:17頃から《対話》シリーズ作品のメイキング映像が流れます メイキング動画へのリンク
※5 きくたびプロジェクト みんなで創作編 サイトへのリンク
※6 視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップのスタッフによる座談会の記事中に、記憶の保存について語る場面があります リンクはこちら
(編集 熊谷香菜子)
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