人と人とで成り立つ場
林 :これまでのお話にあったように、何もなかったところに一座が建立していくということが大切だと思うんですけれど、最近、私たちの現場でも起きている問題として、「視覚障害者がいると面白くなるよね」みたいな、結果しか見ずに、最初から効果を期待され、視覚障害者の方の個人がないがしろにされてしまうように感じることがあるんです。
松尾:福岡市美術館では何年もギャラリーコンパをやってきているんですが、そこでずっと活動されているボランティア組織があるんですね。
それでそのボランティアを長くされている方々が、私たちのギャラリーコンパに参加して下さった時に、「ああ、やっぱりこのやり方はとってもいいわ」って言って帰られた。
誰でも説明を聞きたい人が申し込めて、一緒に自由なおしゃべりを楽しみながら作品を鑑賞するっていうことのボランティアさん達なので、そこには、普段は視覚障害者はいないんですよ。
林 :はい。
松尾:私たちは視覚障害者がいることによって始めたけれど、その方たちが勉強になるっていうことは、つまり、視覚障害者がいなくてもこれはできるっていうところに、今この美術館では落ち着いているんじゃないかな、と思うんです。
林 :そうですよね。それで、いいんですよね。
松尾:それでいいんだと思います。
濱田:僕もよく思うのは、自分が視覚障害者とは思われない空気がとっても大事だ、と。最初は視覚障害者と思うんでしょうけれど、そのうちに視覚障害者と意識しなくなっていく。濱田さんと話していたら、見えない人ということを忘れちゃいますね、なんて、そういう空気。さっき懸念された点は、あのー、何となくわかる気もします、確かに。
林 :はい。
濱田:うん、だから、あまりにも視覚障害者を醸し出して、視覚障害者のための芸術の話になっては、ギャラリーコンパの考え方とは違うでしょうから。視覚障害者とやったから、ということになってはいけないのは確かなんでしょうね。僕らはそんなことを特別に力を入れて意識しているわけではないんでしょうけれど。
松尾:でもやっぱりそんなことを言っても、見える人同士では言わないような、大きさだとか表面の感じだとかを言葉にしていくことで、普段は意識し損ないがちな視点が言葉になって出てくるんですよね。そういう面白さは、視覚障害者がいることで生まれますよね。
林 :その面白さは、そこに人がいるから生まれてくるものであって、その面白さのために人を連れてくるっていう風に、順番が逆になると危ないな、って気がすごくしていて、やっていてヒヤヒヤすることもあったので。皆さんはそこをどうやって通ってこられたのかを聞きたかったんです。
松尾:具体的にはどういうヒヤヒヤなの?
林 :目の見えない人がいるから美術が楽しくなるんだ、だから、見えない人と一緒に見よう、みたいな。
松尾:ツールとして使われちゃう?
林 :はい。晴眼者にとっての効果を得ようとする欲望が発生しちゃいそうなこと、そういう期待を向けられてしまうことがたまにあって。似てるようで本質的に違うんじゃないかなと思っているんです。
松尾:それは、視覚情報のないロボットがそこにいてもいいっていうような?
林 :そう、人を個人として見ていない感じで。
石田:あのー、お話を聞いていて、実は僕の中では全然ピンとこないんですよね。
晴眼者と視覚障害者が一対になって、共同して一つの作品を鑑賞するという構造は、欲望というよりも必要な仕組み。それは林さんのところもそうだと思うんですよ。
それで、実際に起こってくるのが、「視覚障害者」という一般名詞としての対象ではなくて、濱田さんなら濱田さんという「この人」に、どうにかして目の前にある視覚芸術と言われるアートを伝えたいという思い、ですよね。それによって、言葉選びとか描写とかが自然に発生してくる。
同時にそれは、視覚障害者が美術館をユーザーとして利用できる瞬間が生まれるということでもあります。これまで晴眼者と一緒に来館しなくてはできなかった鑑賞が、この場に参加すればできる。まあ、音声ガイドはあるかもしれないけど、この構造でなくてはできないということだと僕は思うんですね。
だから、僕は林さんのそこの欲望に対する怒りの部分っていうのが、あんまりよくわからないですね。いいじゃない、って思う。
林 :世界には視覚障害者と晴眼者がいるから、鑑賞の場でもいるのは当たり前だし、その構造ができるのはいいと思うんですけど、私がすごく怖いと思ってるのは、鑑賞の最初から最後まで、視覚障害者の人を、濱田さんと見ずに視覚障害者としてだけ接するっていうことも起きてしまうんですよね。
石田:起きてしまいますか?そんなことが。あんまり経験したことがない。
林 :なんというか、視覚障害者にちゃんと説明できたっていう満足だけを持って帰っていってしまう晴眼者は、あり得ると思うんですね。
石田:そうであったとして、それは何かいけないことなんですか?
林 :その視覚障害者の参加者は、説明を聞きに来たわけじゃなくて、鑑賞をしに来てるのに、説明される役割として立たされて帰ってしまう。視覚障害者の参加者個人として見られずに。
松尾:ええと、例えば、話を聞いて頭の中に絵を描いて返事をするロボットがいたとしたらグループは成立する、っていうのでは面白くないんですよ。「この人」に伝えるっていうことが大切で。
相手によって全く伝わらなかったら言葉を駆使するし、グループで何枚か作品を鑑賞する中で、そこでの温かい関係性がじわじわと出来てきて、この人だったら、こういう言い方をすれば分かるかもしれないって感じたり、その人の経験が話の中に入ってきたら嬉しくなったり、とか。そういう、人と人との交流も楽しみにしてきてくれるんですよね。何より視覚障害者の方がその作品を見たいと思っている欲望みたいなものが会話の中にこぼれてくることだとか、「ちっともわからない」って言われたらまた考えるとか、そういう喜びがあります。
そして、ギャラリーコンパっていうのは、みんなで最後にお茶を飲むっていう時間が、最初はあったんですよ。
最近は、美術館の中でお茶とかお菓子とかを出してくださっていて。そういうグループ内の交流が大事なんですよ。私たち、最初のうちは特に、鑑賞が終わって、美術館から出てお酒を飲みに行ったりして、そこでおしゃべりするのがセットになってたんです。そのために別でお金を払って飲んだりすることが、また一つの楽しみ。それは鑑賞の中だけではできないと思って、お茶の時間を作ってもらったりしています。
濱田:うんうんうん。
石田:うん、そういう意味でコンパだった。
松尾:ギャラリーコンパのコンパは、石田さんが説明した意味※1だけじゃなくて、普通のコンパっていう意味が入ってるんです。
濱田:鑑賞するということは、お互いに言葉のキャッチボールをしなくちゃいけないもんですから、必ずそこまで懸念することはないんだろうなとは、私は思います。
あの、前回の美術鑑賞の時に、鑑賞した後でAIに読ませてみたら、素晴らしい読みをするんですよね。AIは私生活で使ったりするんですけど、絵の鑑賞はやったことなかったもんだから、これって一体どうなったんだ? というぐらい、それはそれはびっくりしました。
それには、知がないじゃないか、心がないんじゃないかと言われればそうかもしれんけれど、単純に絵だけを一人で鑑賞するんだったら、これだけで通用するんかな、とか、その瞬間思ったりもしました。人間だったら相手もこっちもへばってきますので、絵がぼやけてくるんですけど、機械は疲れ知らずですから。うーん、いろいろと考えさせられたことがありました。
松尾:濱田さんは、今の話はどっちが面白いと思っているの?
濱田:これは使い方次第だなと思いました。プライベートで行くんだったら、一緒に来る人に負担をかけず、これでも絵の鑑賞がかなりできてくるんだろうなと実感しちゃったなというのがありました。
松尾:でも、ギャラリーコンパの場合は、相手が人だから、そこにその人の経験が入ってくるんでしょ?
濱田:うん、そういうことなんですよ。だから全く、ギャラリーコンパとはまた別個のものだなと思っています。
林 :そう、AIのあの情報量とスピードの速さは、圧倒的に人間より優れてるわけですよね。でも、ギャラリーコンパのようにだんだんと一座を建立していく、その場を作っていくっていうことに、量やスピードとはまた違う何か、大切さがあるんですよね。
遊び
林 :私が美術館の人間だったら、常に美術館にいますよと言って、お客さんと信頼関係を作っていくことができると思うんですけど、いつも違う場所に出向いて、いつも違う人に会って、その場で信頼関係を作っていくってすごくデリケートだし、難しいなといつも思ってるんです。それは、みなさんも同じ立場だと思うんですが、その場で初めて会った人たちとの信頼関係を毎回毎回作っていくのは、どういう風にやってらっしゃるんですか?
石田:それは、参加者との関係ですか…?
松尾:…そこと関係の難しさって感じたことある?
石田:いや…、基本、わざわざ日曜日とかに電車賃を使って赴いてくる動機を持った人たちですよ。だからもう来ていただいた段階で、お互いにありがとう、というか。
松尾:よろしくお願いしまーす、ってね。
石田:そう、今日は面白そうなんで遊びに来ましたという人しかいない、喧嘩する理由も冷たくする理由も一切ないですからね。
おそらく同じメンバーで同じようにグループを作ることは二度とできないという一期一会の出逢いを、一緒に味わい、アートを介しながらともに深め合っていく、といった感じでしょうか。
戸惑いはありますよ。美術って敷居高いなと思っている人はいっぱいいて、でも、なんか面白そうだ、と、個々にモチベーションがすでにある人しかいない。遊びのやる気に満ちた人たちが来ているわけだから、やりにくさを感じたことはないです。
林 :なるほど…。
石田:むしろ、大学の授業などでやる場合は、人間関係がすでにあるので、仕掛けが必要ですし、難しいですね。
松尾:あとは、ここに参加した理由が、本人は気づいてないんだけども、自分の話を聞いてほしいっていうものであった人がいた場合、グループの進路をゆがめちゃうっていうか、鑑賞じゃなく、私の話を聞いてほしい、となってしまう時が、ちょっと難しい。
その場合、ボランティアの方か学芸員の方か、私自身がそっちに行って、誰か一人がその人の話を聞く役に回る、ってことは何回かありました。でも、そんな人がいない限り、今まで、全然問題ないですね。
最初はなかなかあんまりっていう人でも、その人の言葉にみんながしっかり耳を傾けていったら、二枚目、三枚目って鑑賞が進んでいくうちに、その人がグループを引っ張っていくぐらいの言葉を紡いでくれたことだってありましたね。
林 :もうすでにお招きする状態から気持ちが出来上がった方が来てくださってる感じなんですね、きっと。
石田:美術館教育の場にも重なってくるのですが、学びというよりも遊びへと昇華していくことが肝じゃないかと僕は考えます。遊びというのは、他者に合わせたリズム、他律性でやるのではなくて、自分の心地よいリズム、心と体が共振れを起こして自律性が発動していくものです。それは自分の中に動機があって、何かやってみたいから好奇心で来たというところから生まれてきます。
林 :はい。
石田:でも、一座建立というところでは、晴眼者にとっては、半分はそこにいる視覚障害者の方に伝えたいという利他的なものです。利他的な思いがある中から生まれる、自律性の遊びというものが大きな仕組みとしてあります。そもそも遊びだから、そんな遊びが面白そうではない人は、応募してまでここに来ないんです。
濱田:うん、面白がってもらうっていうのがあるんじゃないかなと思いますね。と言って、特別意識してるわけでもない気もしますけどね。こうやって話すとなると、そういうことになってはいるんですけど、日頃はそんなことを意識しているわけではないような気もします。
林 :そうですよね。この質問自体、みなさんが、ポカンとされてたってことは、そういうことですよね。
3人:ははは(笑)
楽しくやる
濱田:こういう活動をすると、どうしても、ウェブサイトを作ったり色々するものですけれど、僕らの活動は珍しくそういうことをやってなくて。
林 :そうなんですよ。ギャラリーコンパさんの活動をたどろうとしても、インターネットで見つけられなくって。
濱田:逆にそれが気楽でよかったのかな。かなり管理するのが大変で苦労するんだと思うんですけれど、そこに縛られなかった。僕も石田さん、松尾さんにそういうことを求めることもなかったので、それが違った意味での長く続いた良さだったのかなと、思うこともあります。
松尾:だから、ほとんど問い合わせもなく、気楽にやってます。
林 :そうなんですね。
石田:2005年に立ち上げた当初って、今のようなSNSは、ほぼメーリングリストぐらいしかなかったんです。
視覚障害者の方にお声掛けをするにも、SNSは成熟してなかったし、紙ベースでも視覚障害者の方には届かないので、本当に松尾さんが毎回コツコツとメーリングリストで募集をして、そこからの口コミだったり、濱田さんが視覚障害者の協会などで声を掛けてくださったりして、最後までサイトを作らずにやってきました。
前に一度、サイトを作るかどうか、3人で議論したことがありましたが、「いや、やっぱりやめよう」ということで。
林 :あっ、やめようってなったんですか…!
松尾:うん。とにかく、管理するものは、自分たちの仕事の方で別にあるから、もうこれ以上はいい、って。
石田:そうですよね、わかります。松尾さんの所属している施設では、当然のようにものすごくSNSで発信してますよね。
松尾:私は苦手分野で今は得意な人に任せています。自分たちが開催できる数を考えても対応しきれないし、もう十分って、私はそう思って。
林 :実績を残したくないのかとか、すごくたくさんの実績があるのに、なんで有名になっていないのか、なんで全国に広まっていないのかとか、気になっていました。
松尾:わざとやったわけじゃないです。
林 :そうかぁ…、いや興味深いです。
松尾:楽しくないほど頑張ったら、本当に楽しくなくなっちゃうので。
文化の差
石田:特に初期の頃よく思ったのは、僕らがギャラリーコンパをやってるときに、その展覧会を作った学芸員さんや、その絵を描いた画家さんも喜んでくださるんですよ。嬉しそうにやりとりを見てくれている。
ああ、そっか、と。自分達が作った場所で楽しそうに会話しているわけです。つまり、「孤独のグルメ」での独白※2ですよね。普段は聞こえない心の声を、テレビドラマでは聞こえるようにしてあるみたいに、普段は絵をじっと静かに見て鑑賞しているのが、ギャラリーコンパでは、全部言葉で表出してしまうから、学芸員さんや、画家さんは感動されるみたいなんです。画家であれば、「俺の絵ってそんな風に見てもらえてるんだ」と。しかも、視覚障害者の方も自分の作品を興味深く鑑賞してくれている、ということに対して。
松尾:美術館で、普通の通りがかりの人が足を止めて聞いてたりとかね。美術館的にも嬉しいことですよね。静かに見なきゃいけないと思っていたものが、こんなに喋ってて、しかも、私が考えてることじゃないことを喋ってるぞ、みたいな。面白いと思います。
石田:そうですね。それはギャラリーコンパというよりも、林さんのところも他も、同じだと思いますけども。
林 :はい、そういう要素はもちろん軸にあるんですけど、やっぱり場所が違うと、いろいろ違うんだなっていうのも、見えてきた気がします。
石田:僕は広島生まれで、九州でギャラリーコンパをやっていると、九州人はすごくオープンというか、社交性が県民性としてあるなぁと感じさせられることが多いです。東京でやる時と、九州、特に博多近辺でやる時で、その辺の気質みたいなものが出るんじゃないかなと思いますね。
林 :ああ、そうですよね。
石田:「文化」と「文明」の違い、というのを司馬遼太郎さんがおっしゃっていて。
林 :はい、ありますね。
石田:一般的に「文明」というのは、合理的でどこでも誰にでも役に立つものだからこそ、広く均一に伝播していくものです。一方で「文化」というのは、他者が一見すると「なんだこれは?」と首をかしげるような、固有の理屈や非合理さを孕んだものです。
私たちの活動も、仕組み自体は林さんの活動と共通している部分がきっと多いと思います。ですが、そこに宿る、場づくりにおける文化には、確かな違いがあるのかもしれませんね。九州には九州の、東京には東京の、固有の場づくりの形があるのだろうと思います。僕たちは鳥取や九州の参加者の方々と座を囲んできたからこそ、今のこの文化に辿り着いたのだろうと感じます。 もしこれをそのまま東京や名古屋へ持っていって、形だけ真似てやってみたとしても、「あれ、何かが違うぞ?」と違和感が生じる可能性もあるでしょうね。
林 :そうですよね。
石田:それこそが、場所と人が編み出す文化の面白さなのだと思います。その辺りの違いは、面白がった方がいいところだろうなと。
林 :本当にそうですよね。いや、今日お話してて、知らず知らずのうちに、文明側の合理的な考え方が自分の中に染み込んでいるのを感じて、いたたまれない気持ちになる瞬間もありまして、勉強になりました。
石田:いやあ、こちらこそ。
濱田:僕らのちゃらんぽらんな(笑)
松尾:いい加減なね(笑)
林 :あの、また何か定期的に、今度は相談に乗っていただけませんか?
濱田:いつだってお茶会でもしたらいいんじゃないでしょうかね。
林 :本当に、これからもよろしくお願いします。
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※1 “「コンパ」は、カンパーニュ、カンパニー、コンパニオンと同じ語源のラテン語で「パンを分かち合う」つまり「命の糧をシェアする」という意味が含まれるんです。「アート体験を互いに持ち寄り分かち合って、ひとりひとりの糧とする」って意味を込めて、ネーミングしたんです。” ギャラリーコンパさんインタビュー中編より
※2 『孤独のグルメ』は、テレビ東京系列のテレビドラマのタイトル。ある寡黙なサラリーマンが街の飲食店に入り、1人で食事をする様子を淡々と描くが、そこに挿入される、男の饒舌な心の声が特徴である。
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