みる「みる」経験のアーカイブ Archive of 'Seeing'Experiences

左から濱田さん、松尾さん、石田さんが並んで笑顔で喋っている様子。松尾さんはマイクを持ち、濱田さんは帽子を手にしている。

「みる」場づくりのインタビュー

ギャラリーコンパさん[前編]

九州・福岡を中心に20年間活動を続けられてきたギャラリーコンパの3名に、お話をお伺いしました。ここまで続いてきたのには、出会いが大きかった、と振り返ります。前編では、普段の生活では全く会うことがないという3名それぞれの背景や、グループ結成時のエピソード、そしてこの20年間の変遷について語っていただきました。

●プロフィール

ギャラリーコンパ
2005年福岡にて始動した、石田陽介、松尾さち、濱田庄司の3名による市民活動にして芸術運動。視覚障害者と晴眼者が互いの個性を活かし合いながら美術館・博物館やギャラリーへと赴き、作品を主に対話で、時に触って味わう、インクルーシブ・アートシェアリング ワークショップを継続的に展開している。「ギャラリーコンパ」は、活動グループ名でもあり、開催するワークショップのタイトルでもある。

聞き手
林建太
視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップスタッフ。1973年東京生まれ。2012年から活動開始。鑑賞プログラムの場づくりについては、複数のスタッフと対話しながら試行錯誤している。安全な場をつくる方法には、いつの時代もどの地域でも通用するような正解がないので、様々な実践者のお話を聞きながら考えてみたいと思っている。

ギャラリーコンパのはじまり

林 :ギャラリーコンパさんのことは、私が活動を始める前にいろんな記録を調べている中でお名前を見つけて以来、ずっと一方的に存じ上げていました。これまで、石田さんとはお会いしたことがありますが、松尾さんは初めて、濱田さんは、九州国立博物館での私たちのワークショップにお越しくださいましたよね。

濱田:はい、そうです。覚えています。

林 :ですので、まずは改めて、みなさんの自己紹介を兼ねて、グループの中での役割みたいなものがあれば、最初にお聞きしてもいいですか。

濱田:石田さんからでいいんじゃない?

石田:はい。基本的にはこの3人が、誰がリーダーというわけではなくやってきました。ハンナ・アーレントや山崎正和とかが示すように、1人(私的)や2人(親密な関係)を超えて、3人になることで初めて「自分たち以外の視点」や「社会的なルール」が必要な公共空間(パブリック)が成立していくような気がします。例えば3人いると、僕と濱田さんが男性で、松尾さんが女性、あとは、僕と松尾さんが晴眼者で、濱田さんが視覚障害者、というような多様性があって。その中でも共通性があって、福岡市の近郊に住んでいて、それぞれに市民活動として、活動を気軽に続けられるという条件が重なったということですね。
僕が、2022年に、鳥取にへと職場が移ってしまったので、そのあたりが変わってきましたが、2005年のスタート当初から、楽にやっていこう、というか、こんなに続くとも思ってなかったですね。それぞれが予定が合う日で集まる、逆に言うと、3人の誰かが還暦になったみたいだから、お祝いしようか、なんて時以外に会うことがなくて、ギャラリーコンパ以外の形での利害関係が全くないんです。

林 :あぁ、そうなんですね。

石田:あとは、松尾さんだけが車を持ってらっしゃるので、いつも僕ら2人は松尾さんに車で拾っていただくとか。僕が、現在大学に勤めていたり、芸術祭みたいなことを主催していたりするので、予算を取ってくるとか。濱田さんは、全盲であることで、いろんな方が興味関心を持たれて、ニュースに出たり、フィーチャーされることが多々あったりとか。
まあ外から見たら、そういう役割をそれぞれが担ってきたよねっていうことはあるかもしれませんが、これは誰が担当する、といった役割分担は僕たちの中で特にないです。強いて挙げるとしたら、松尾さんがアートマネージャーとしてすごく有能な方なので、細かいところは松尾さんが引き受けて、話を詰めてくださることは多いですね。

林 :松尾さんは、アートマネージャーを担っているご自覚はあるんですか?

松尾:あんまりないですけど、大体、話の柱の部分を今みたいに石田さんが全部やってくれて、そこで足りないなと思うことを、アート関係でちょっと発言する程度ですね。トークの時には、余談を私が間で入れるって感じ。一番最初の始まり、呼びかけの時は、私がちょっとセッティングしてるところはありましたね。

林 :そうなんですね。その、始まりのところをぜひ聞かせてください。

松尾:2004年の国民文化祭※1で私たち福岡県が事務局だったのが、きっかけですね。私は知的障害者のためのアート活動を、B型の通所支援施設の支援員としてやっていて、そこで国民文化祭とつながりました。
私は障害者アートを仕事にしている関係で、いろんな人と会うことがある中で、絵を見る方法として、視覚障害者の方と一緒に見ると面白いんじゃないかっていうのが、日本全国のブームとして、ちょっと盛り上がった時期だったんです。

林 :そうですね。

松尾:それで世田谷美術館でやっていたもの※2に興味を持って参加してみたら、こういう流れになってきたっていう感じです。
国民文化祭の後に、福岡アジア美術館に集めていただいてやった活動が最後にあったんですね。それで、そこで出逢った私たち三人で「ギャラリーコンパ」を始めたんです。

林 :エイブルアートのイベント※3の時ですか。

松尾:そうです。うちだけじゃなくて、色んなところでそういう動きをしてもらうように、仕組んでいたと思います。

林 :はい、当時そういう動きがありましたよね。

松尾:最初は、自主企画で、地方の小さな美術館の彫刻を手で見るっていう会をやったんですね。その時に、ギャラリーコンパっていう名前が決まったかな。

濱田:うん、うん。

松尾:それから福岡在住の、校長先生でもいらっしゃった彫刻家の方が、自分の個展をやる時に声をかけて下さって、彫刻を触る活動をしたりとか。
そういう風に、最初から、今のようなワークショップ形式を作り上げてから活動を始動した訳じゃなくて、皆さんの気持ちで、知り合いの人がなんかやってるからとか、ちょうど知ってる先生が彫刻触ってもいいよって言ってるし、みたいなことから、じわじわって始まって。

林 :そうでしたか。

松尾:でも、彫刻はその当時は鑑賞者が触れることが許される作品は非常に少なかったので。それで、基本は絵画を言葉でっていうやり方に傾倒してましたね。東京の方の流れもあったと思うんですけども。
でも、うちは、濱田さん発案で、香りを楽しむとか、音楽を楽しむ等のバリエーションの活動も時々入ってるんですよ。

濱田:コーヒーの香りを入れましたね。

松尾:そう、そういうのが間で入ったりとかして。平面絵画にこだわってないんです。そのものが放つ魅力を一緒に分かち合うことができるもの、社会的障害を超えて五官のどこかでその対象を共に味わいたいと思えるようなものなら、美術作品に限らず「まあ、ギャラリーコンパでやってみようよ」って感じでしたよね。

林 :自分達の中に、これをやりたいっていうのが最初からあったわけではなくて、やってみませんかって、知り合いの学芸員さんとか作家さんとか、いろんなところからの呼びかけで。

松尾:自分たちにご縁を感じていただいた相手の呼び掛けにも、すぐさま乗っかります。「面白そう!うちでやりませんか?」みたいなお誘いとかね、すぐに「やりましょう」と応えてきました。博多・九州のそんなノリですね。

濱田:出会いが大きかったですね、ここまで続けてこられたのは。

林 :偶然がいろいろ重なったという感じなんですね。

濱田:はい。無理矢理に何かを作ったというよりも、やっている中で出会いがあって、美術館、博物館、国立博物館も含めて、出会ってきたっていう。

松尾:今でもそうです。「美術館展示品の中で今年は触れられる彫刻作品があるんですけど」とか、「美術館館長室に飾られている彫刻作品は、触れるんですけど、どうですか?」とか相手も乗ってくるんです。「次回の私の彫刻作品展でぜひギャラリーコンパを開催しませんか」と言われて、「じゃあ一緒にやりましょう」みたいなノリで、これまでやってまいりました。

林 :そうなんですね。

「全盲の濱田庄司の鑑賞に立ち会う、本彫刻作品の作者である片山博詞氏」

20年の変遷

石田:冒頭のお話に関連して補足しますと、自分たち3人にはそれぞれ異なるバックボーンがあります。そして共通点もあるのですが、それは各々がケアに携わる業種であるという事です。
松尾さんは先ほど述べていた通り、通所支援施設の現場。濱田さんは鍼灸師として、いわば治療のプロです。そして僕自身は、もともと精神科総合病院で認知症の高齢者や精神疾患を持つ方々を退所としてリハビリテーション治療としての芸術療法を行うアートセラピストとして活動していました。
そんなケアラーとしての背景を持つ3人が、縁あって市民活動として合流した。自分たちの本来の仕事現場と「ギャラリーコンパ」は、隣接はしているけれど多分に領域が異なっています。より広い領域でのインクルーシブなケアの場をアートシーンを通して作るという場で出逢ったのです。
ギャラリーコンパにおいては、視覚障害者と晴眼者がお互いをケアし補完していくことで、一座建立がなされます。ケアを相手へと贈ろうとする者自身が翻って照り返されていくことは、ケアの持つ本質であると僕はいつも感じさせられます。3人ともおそらく本職と完全に切り離されているわけではありませんが、参加者の嬉々とした一座建立の場が放つ光といったものに触れるにつけ、我々企画スタッフもケアの機能効果が逆照射され、癒やされていきます。
図らずもそうしたケアの往還があったからこそ、20年という歳月を嬉々としながら飽きもせず諦めもせず続けてこられたのだと感じています。

林 :濱田さんもそのような感じですか?

濱田:うん、基本そんな感じで。私は、元々見えることに随分興味がありましたし、見えないからこそ見えることをいろいろしておかなくちゃいけないな、ということが、ずっと若い頃からあったもんだから。
そういう意味では気楽に、松尾さんと石田さんの上に乗っからせてもらって、私自身は何事も考えないで、おもろく楽しくみんなとやってこられたなという感じです。

石田 :そんな感じで、ブリコラージュというか、場当たり的に3人してやってきましたね。例えば、視覚障害者の方が来るっていう時は、松尾さんがその方とやりとりして駅まで車を出すとか、そういうマンパワー的なことも3人で全部担いながらの、毎年3、4回の開催でした。

松尾:ええ、一時期は駅まで迎えに来てくれというのも何人かいらっしゃいましたけど、基本的にはご自身でしていただかないとちょっともう難しい。今は、ちょうどインクルーシブな鑑賞の潮流が日本のミュージアムに来てるから、アクセシビリティに関する準備を始めたミュージアムよりお声が掛かり、インクルーシブ・アートシェアリング ワークショップ企画のファシリテーター講師や、スタッフ育成役として出向く形が増えましたね。

石田:コロナの前、7年前くらいからですかね。
それまでの2009年から2018年まで、私が九州大学の職員や学生だった時に福岡市東区の箱崎でアートフェス※4を開催していて、その中で主催するギャラリーコンパが年に1回ありました。
それが終わった後、しばらくしたら今度はコロナが流行り出して、こうしたコミュニティアートにとって難しい時期があり、それが収束するタイミングぐらいで、私が鳥取に行きました。
それとコロナの前から、福岡市美術館の学芸員さんがギャラリーコンパにプライベートで参加してくださってて、ぜひうちでもやりたいと声をかけていただいたのが、7年前かな。その後、九州国立博物館や長崎県美術館、いろんな美術館・博物館から我々3人にお声がかかるようになって。

松尾:そうね。

石田:歴史的にこれまで‘視覚芸術’として括られてしまっていた美術に対して、美術館・博物館サイドが、そもそも視覚障害者をオーディエンスとしてあまり想定していなかったことは、これは社会包摂という点では至らなかった、という気づきがあったわけですね。
多分それは、林さんや白鳥建二さんも含めた全国各地での活動もあって、視覚障害者に向けた美術館・博物館へのアクセシビリティを九州各地の美術館でも積極的に拡大していこうという気運が高まってきた。でも「初めてなものでノウハウがないぞ」っていう時に、我々「ギャラリーコンパ」にお声がかかることが一気に増えてきました。どこかでそうしたインクルーシブな企画講座などを開くと、そこに他所からの学芸員さんが参加者として来て、「我々のミュージアムでもやりたい」と、お声をかけてもらう、といった連鎖が増えました。

林 :はい、はい。

石田:私たちは「あ、では、やりますよ」と。あとは、美術館のスタッフの方が自分達だけで企画ができるようにまずは習いたいというミュージアムやギャラリーもありますね。

松尾:ボランティアさんの育成みたいな感じでね。

石田:はい、「ギャラリーコンパ」と銘打たずに、各美術館・博物館が行う主催事業に、企画・ファシリテーター講師として参画するという形は近年増えていますね。

林 :そうなんですね。2005年からずっと途切れなく活動されていますけど、みなさんの状態が変わったり、社会の価値観が変わっていったりっていう潮流に合わせて、その都度、続けてきたって感じなんですね。

石田:そうですね。我々は、市民活動として2005年に始めたけど、これは近隣に暮らす市民がアート共同鑑賞ワークショップを通して出逢い、社会包摂を推進させるというソーシャルデザインを担った芸術運動でもあったんです。

林 :はい。濱田さんは、これまでの20年、どんな思いで関わられてきたんですか?

濱田:僕は、大それたこともなく、言ってみれば普通の視覚障害者としてやってきたのかなというのが実感です。
不満なこともなく、とにかく楽しくやれれば、と、それだけであって、研究しようとか勉強しようとか、さらに何かに活かそうとか、そんなことは考えていません。僕も、普段も美術館によく行く方なんですけれど、まあ見てその時は楽しいけど、すぐ忘れちゃって、っていうくらい気楽にやってきた、というのが、普通の視覚障害者として、また、ごく普通の一般の美術鑑賞をする人と同じような感覚で、ずっとやってきたのかな。
僕自身は、どっかに変な欲望があるのかもしれませんけれど、今のところそういうこともなく、でも得ることは多くあって、これだけ続けてきてよかったなと思いますし、理想は、あと10年ぐらい、自分の体がどうにか言うことを聞けば、この3人で続けていかれたらいいなというのが、僕自身の願いというか、希望ですね。

林 :元々芸術に興味がある方ではあったんですか?

濱田:あったと思います。子どもの頃から、「‘見えないこと’に興味をなくしてしまったらダメなんだ」という考えが、ずーっと頭の片隅にあってですね、ちょうど国民文化祭という大きなことがあって、そこに私もうまくその潮流に乗れたということだったと思います。

林 :そうなんですね。お子さんの頃は、美術館とか、そういう文化や芸術に触れる機会があったんですか?

濱田:僕は映画が大好きでですね、まったく当時、私みたいに見えない人間で一人で映画に行く人なんてほとんどいなかったと思うんですけれど、それでも自力で杖をついて、一所懸命行って楽しんでいたというのが、大きな僕の原点じゃないかな。

林 :それは何歳ぐらいの時なんですか?

濱田:中学生頃からだったと思います。今考えると、自分自身不思議に思うんだけど、かなりのチャレンジャーだったですね。今は、映画館とか行ったら、いろんなスタッフさんとかに声かけられたり、助けていただくことがあるんですけど、当時は全く誰も、声かけてくれる人はいませんでした。

林 :いなかったんですか。

濱田:ええ、チケット買うのにも苦労しましたし、席にも座らなきゃあいけないという感じで、とっても苦労しまして。今思うとなんでそんな沸々としたパワーがあったのかなと思うんですけれど。でも、それが今考えてみると、自分の基というか、原点となったのかな、そして今のギャラリーコンパという形ができたのかなと。自分なりに、社会に楽しみながら伝えられることができて、よかったなと思っています。

林 :それは、映画の何に惹かれていたんですか?

濱田:言葉はあれなんですけれど、普通の見える人みたいにありたい、という気持ちがとっても当時強かったんですよ。見えないことだけの社会では嫌だという、ちょっとひねくれた根性がありまして。とにかく普通の人みたいに生活したい、普通の人みたいでありたい、という、もうそれだけで、当時は突っ走ってきたという感じでした。

林 :その向く先が映画や美術だったんですね。

濱田:娯楽の一環として、そういうことに続いていったんだろうと思います。

石田:濱田さんは、視覚障害者と晴眼者の方が一緒に鑑賞できる映画の企画イベントをずっと主催されてますよね。

濱田:うん、実を言うと10年間続けてきた映画活動を、今年の春過ぎに大きな企画が終わった時点で、解散しちゃったんですよ。今、映画そのものがかなりバリアフリー化されてきましたので、僕らの活動も一通りいいだろうということで。

林 :社会的にもバリアフリーと映画がつながってきたことで、濱田さんの役割は果たしたっていう認識なんですね。でも、美術の方も美術館の中の人がそういう意識を持ち始めてるじゃないですか。美術の方は、濱田さんの役目を果たし終えたとは思わないんですか?

濱田:美術に関しては、はっきり言って、僕の一種のライフワークとなっていますので、これは絶対、石田さんと松尾さんがやめると言わん限りは、しがみついてでもついていこうかなと思っております。これを無くしたらいかんなと思ってますね。

林 :すると、そもそもが役割って感じじゃないんですかね?

濱田:そうだとは思います。だけど社会に何かを、見えない立場として伝えられることもあるんじゃないかなという気持ちも、多少なりともあります。

林 :コンパでの役割というより、濱田さんのライフワークの一部ということなんですね。


※1 2004年、福岡県で「第19回国民文化祭・ふくおか2004 つなぐ!ひと・まち・アートフェスティバル」が開催された。その中で、視覚障害者と晴眼者がともに作品を鑑賞するワークショップが、実行委員会事務局や文化庁らが主催となって実施された。
※2 世田谷美術館で2003年8月30日、31日にミュージアムアクセスグループ全国会議が開催された。会議に参加したミュージアムアクセスビューによるレポートがこちら
※3 エイブル・アート in 福岡2005「もうひとつのみえかた」の鑑賞ワークショップが、2005年9月、福岡アジア美術館で実施された。
※4 箱崎アートターミナル。九州大学 箱崎キャンパスが開校以来100年間あった福岡市箱崎地区からの移転が決まり、2018年の完全移転へと向かう中で、学生街のシャッター通り化が急激に進むこのまちを舞台に「箱崎キャンパスと学生街の看取り」をテーマに2009年より10年間に亘ってカウントダウンしながら開催したアートフェス。石田陽介が主催者・芸術監督を務めた。

(編集 熊谷香菜子)

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